望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

言葉の概念や定義の共有

 AI(人工知能)という言葉を雑誌などで見かけることが増えた。人工的な知能だから、まもなく、映画「2001年宇宙の旅」に出てくるHALのようにコンピューターが独自の意識を持って、人間と対等に渡り合うようになると短絡する人もいる。でも、そうした未来が実現するとしても、遥か先のことだ。

 現在のAIにできることはパターン認識だけだ。蓄積された大量のデータから目的とするものを探し出す速度が、機械学習の高度化などで飛躍的に早くなった段階だ。大量のデータ(=過去の記録)を分析・利用する分野でAIを実用的に活用できるようになったが、独自の知能といえるものをコンピューターが持ったわけではない。

 AIに対する過大な評価が起きるのは、現在のAIにできることを曖昧に理解したままの人が、期待を込めて可能性を論じるからだろう。AIに限らず、言葉の概念や定義を曖昧に認識したままの論は、正確性が不足するとともに、主観が混じりこみやすい。

 言葉の概念や定義が人によって微妙な違いがあることは珍しくなく、時には、主観によって拡大解釈されている。日常会話などでは、そうした違いは無視されるだろうが、正確な認識や分析、展望を持つためには、言葉の概念や定義の明確化が欠かせない。

 何かについての議論が、言葉の概念や定義を共有していないため、互いの主張を言い合うことに終始したり、それぞれが都合よく解釈した状況認識で自己の主張を正当化する光景はよくある。言葉の概念や定義を共有することは、言葉の意味する範囲を限定するので、共通理解と相違点を明確化する。

 例えば、ひところよく見かけた国際貢献という言葉。国際とは何か。貢献とは何か。さらに、(日本が国際に)貢献するとは何か。曖昧なままに活発な論が沸き起こったが、現在でも国際貢献という言葉は曖昧なままだ。言葉は曖昧なままのほうが政治家は使いやすいだろうが、政治家の論は政治的な主張でしかない。

 言葉の概念や定義を共有しないことが、一方的な主張を可能にする。共通理解を広げつつ自分の論の正しさで相手を説得しようと試みず、自分の存在証明のために一方的な主張をするためには、言葉の概念や定義の共有は邪魔になるだろう。かくして国際貢献をめぐる議論は不毛に終わった。