望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

消えたシールズ

 SEALDs(シールズ=自由と民主主義のための学生緊急行動)という学生団体がかつて、国会前のデモなどの活動を行い、一部のマスコミに大きくもてはやされた。若者が政治参加の声を上げ、動き出したという賛美だったが、シールズは2016年8月に解散した。

 シールズが残したものは何か、ぼやけている。どうやら解散とともに忘れられて終わりということらしい。一部のマスコミに祭り上げられ、世論を誘導するという利用価値がなくなって捨てられただけと見える。「反対するだけ」という野党側の政治運動に少し変わった色付けをしてみせた存在だったともいえる。

 現代では全てが消費される対象になり、多くは消費された後に捨てられて見向きもされない。シールズという運動も消費されて捨てられたと解釈すべきだろう。政治運動が消費されて捨てられたということは、その政治運動は残すに値する何ものも提示していなかったことでもある。

 政治運動だから、影響力が減退して「賞味期限」が過ぎれば捨てられるのは当然だろうが、少しの引っかき傷も残せず消えただけという運動は、潔いともいえるが、運動として無力だった。見方を変えると、一部のマスコミなどが賛美したからこそ、無力でも一時は勢いを得た。

 無力だったとしても、学生に政治運動への自由な参加の機会を広げたことはシールズの功績だろう。また、中央の執行部は弱体なままで分散型の組織を広げるという新しい組織像を提示したことも興味深い実験だったが、求心力と遠心力が釣り合ってこそ運動する組織は形を保つ。

 自由な連合というのは、運動の理想かもしれない。何かの目的を共有する個人が自由に集まって力を合わせて運動し、目的を達したり、運動の意味や意義が薄れたなら個人は散っていく……そんな運動が成立するには、自立した個人が集まることがカギとなる。自立した個人とは、1人で闘うことができる人のことだ。物語でいえば『水滸伝』の世界だ。

 シールズは、自由な連合になることができた可能性はあったのか。結果から判断すると、一部のマスコミにもてはやされ、利用されただけだった。「人は無力だから群れるのではなく、群れるから無力になる」(by竹中労)という言葉を思い出すなら、シールズが無力だった理由が見える。