望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

国家像と軍事

 日本という国の防衛体制は、憲法日米安保条約が一体となって構築されている。非武装を掲げる憲法がありながら実際には軍事的な防衛力が必要だと自衛隊を発足させたが、防衛に徹するので軍隊ではないと憲法との辻褄を合わせ、反撃(攻撃)は駐留米軍が担うという枠割分担だ。

 日本はかつて、強大な軍部が支配し、アジア・太平洋の各方面で戦争を行い、結局は無条件降伏した歴史がある。多くの人々が死傷し、多くの都市が空襲で焼け野原になったのだから、軍事や軍隊に対する強い拒否感が人々にあるのは当然だろう。だが、その拒否感が軍事や軍隊について冷静に考えることを阻害してきた面がある。

 軍事や軍隊に対する拒否感は人々の悲惨な戦争体験に基づいていたが、世代交代が進むにつれて、その拒否感は軍事や軍隊を悪だとみなす意識に変化し、受け継がれているように見える。軍事や戦争を悪だとすることで、冷静に考えることを拒否することが正当化される。

 世界の全ての国が軍事力を放棄し、国際関係は相互信頼と理性に基づいて友愛と正義を共有しながら構築されるなら素晴らしい。だが、そんな世界は現実には存在しない。米ロ中など強大な軍事力を誇示する国が大きな影響力を持ち、大国ではない国々も軍事力を重視している。

 軍事や戦争は国家の管轄である。日本で軍事や戦争の全面否定論が有力なのは、日本の国家像が揺れているからだろう。軍事や戦争が戦前の日本の体制とのみ結びつけて考えられ、主権在民の民主国家における軍事や戦争についての考察が日本では欠如する。民主国家の主権者である日本の人々のための軍事や戦争とは何か、ほとんど議論されてこなかった。

 市民革命を経て成立した主権在民の民主国家なら、国の防衛(独立)と市民の権利の結びつきが明確で、軍事や戦争を否定することは自らの権利の否定にもなりかねない。だが日本では、多大の犠牲があったとはいえ、主権在民も民主主義も日本の人々が自力で勝ち取ったものとはいえない。

 戦前の日本の体制を判断基準にすれば、軍事や軍隊は人々の抑圧や犠牲をもたらすものとなるだろう。だが現在の日本は主権在民の民主国家とみなされている。軍事や戦争を悪だとして冷静な考察が欠如しているのは、国家は人々に害をなす存在と現在でも多くの日本人が感じ、そんな国家が管轄する軍事や戦争に対する嫌悪感によるものかもしれない。