望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

制度としての民主主義

 民主主義が実施されている国の選挙で、強権的な指導者や自国優先を主張するポピュリストを選出する動きが各国で相次いでいる。これらを憂慮し、民主主義が損なわれていると主張する論がある一方、民主主義が機能しているから分断が表面化するとの論もある。

 民主主義を巡る議論が噛み合わないのは、民主主義の定義が人により異なっているからだ。人によっては「善なる」民主主義を擁護する姿勢を示すことで自説を正当化したりする。民主主義については幅広い解釈が可能だろうが、共有する定義としては、善悪などの価値判断を含まない最小限のものになろう。

 制度として見るか、理念として見るかで民主主義の位置付けは変わってくる。理念としては人民主権であり、個人の権利を擁護し、自由・平等を実現するのが民主主義だろうが、制度としては、主権者である人々の自由選挙により形成された議会や政府に正当性を付与する仕組みとなる。

 理念はしばしば、崇高で善なるものとされるが、客観的な崇高さや善なるものの見極めは簡単ではなく、主観が入りやすい。民主主義の現実化は政治により行われるが、政治的な主張に主観が混じると、対立や分断を先鋭化させるとともに、そうした主観の共有は仲間内(同志)にとどまるだろう。

 人々が様々な思いを込めることで民主主義は支持される。抽象化した理念だけで成り立った民主主義が、現実の社会で人々によって具体化される時に様々な主観が紛れ込むのは避けられまい。だから、理念としての民主主義は現実政治においては多様にならざるを得ない。

 理念としての民主主義が多様になるということは、その定義も多様になり、多くの人がそれぞれの民主主義を掲げて争うことも起きる。例えば、個人の自由を最重視する人と平等を最重視する人とでは論点が異なろう。どちらも「正しい」のだろうが、理念に関わることだから妥協は簡単ではない。

 理念としての民主主義が人々によって多様になるのは民主主義を豊かにするが、定義を共有するには困難が増す。制度としての民主主義の定義のほうが共有しやすいだろう。定義としての民主主義の要件は①国家の主権を有する人々が自由選挙に参加、②その自由選挙で選出された人々が議会や政府を構成、③その議会や政府だけに正当性が与えられる。