望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

信仰心のビルトイン

 「神を信じよ」との呼びかけを見たり聞いたりした人は多いだろう。こうした呼びかけはキリスト教団体などが行っているようだから、「信じよ」と呼びかける対象の神とは、聖書に描かれている、この世界を創造し、人間をもつくった神のことだろう。

 なぜ、神は自身がつくった人間に対して「神を信じよ」と呼びかけるのか。実際に呼びかけているのは人間が人間に対してであり、神が人間に直接呼びかけているのではないから、神の存在を信じていない人は、神が呼びかけているとは受け止めず、人間が呼びかけているだけだと見るだろう。

 「神を信じよ」との呼びかけは、神を信じない人間に対しての呼びかけであり、そうした呼びかけが必要とされるのは、神を信じない人間が存在し、その数が相当程度多いと神を信じる集団が考えるからだ(神を信じる人間が多数ならば、そうした呼びかけの必要性は希薄になろう)。

 神は、人間が行う「神を信じよ」との呼びかけにどこまで関与しているのか。神が存在すると仮定すると、そうした活動は①神が人間にさせている、②人間が自発的に行うことで神は関与していない、のどちらかだ。①はさらに、神の関与を示す証はないから客観的には、神を信じる集団や人間が勝手に行動しているだけと見える。

 人間が「神を信じよ」と呼びかけるのは、信仰を広めようとの使命感に促されているからだろう。だが、そうした使命感を人間が持つのは、①神から示唆された、②人間が考えた、のどちらかなのか判断できない。さらに①の神の示唆を示す証は、おそらく確信など人間の主観によるものである可能性が高そうだ。

 神が存在し、人間をつくったと仮定すると、なぜ神は人間に「神を信じよ」と呼びかけるのか。人間をつくった時に神は、本能の一つとして信仰心を人間にビルトインさせておけば、後世になって「神を信じよ」などと人間に布教活動をさせる必要はなかったのに。

 なぜ神は人間をつくった時に神に対する信仰心をビルトインしなかったのか。考えられるのは、第一に神は人間をつくる時にうっかりミスをした、第二に人間に神への信仰心を求めなかった、第三に人間を試すために後から神の言葉だけを与えた、第四に長い年月とともに人間が神を忘却することを神は知らなかった、第五に神は人間に関心がない、などだ。

 人間をつくった神が人間に対して「神を信じよ」と呼びかけていると考えると、神の全能性に疑問が生じる。神が存在するなら、その神は人間に関心を持たないのかもしれない。そんな神を信じるのは簡単ではなかろうが、それでも神を信じるというのが信仰心なのだろう。