望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

終末論は続く

 かつて「ノストラダムスの予言」が話題になった。その予言は1999年に人類が滅びるというものだった。予言は「1999年の7の月/天から恐怖の大王が降ってくる/アンゴルモアの大王を蘇らせ/その前後、マルス(火星)は首尾よく支配する」という詩だった(日本語訳は様々ある)。1999年7月が近づくと人々は落ち着かなくなった。

 予言の前半の「1999年の7の月/天から恐怖の大王が降ってくる」との具体的な表現が分かりやすく、何かが空から降ってきて破壊をもたらすと受け止められ、不安感が高まり、終末論が広がった。恐怖の大王が意味するのはミサイルや人工衛星、大気汚染など様々に取沙汰されたが、実際には1999年7月に人類を滅ぼすような恐怖の大王は天から降っては来ず、予言は大外れだった。

 この予言は、1999年7月だけが具体的かつ現実的で、恐怖の大王など他の文言は解釈次第でどんな意味をも引き出すことができるものだった。恐怖の大王の正体がわからないから様々な解釈が唱えられ、それらの解釈があたかも事実を指し示しているように受け止めた人々は不安感を高めた。解釈と事実を混同し、解釈を事実だと認識する人はデマなどに踊らされやすく、情報操作のカモになる。
 
 何かが起きるとの予言は、予言の文言に適合するような出来事が現実に起こることで信用されるのだが、何も起きなかったなら忘れられる。「ノストラダムスの予言」も現在では忘れられた存在だ。1999年7月に恐怖の大王は降ってはこず、「実は〜」との新たな解釈が出てきて、ノストラダムスによる終末論を延長させるような動きも目立たなかった。予言が空振りだったことを人々は笑い、終末が来るとの予言を忘れた。

 この世界が何らかの法則なり何らかの力で動いている場合に、その法則などを察知した人が未来に生じるであろう出来事を類推したなら、予言することができよう。だが、直感的なひらめきや霊感などで浮かんだイメージから生じた予言には客観的な根拠がない。とはいえ、根拠が曖昧だから予言を知った人々は予言を信じるしかなく、信じるという行為は信じる対象への依存を強めたりする。

 不安感を煽ることで人々が予言を気に留め、予言は存在感を得る(科学的な装いの将来予測も同じだ)。良いことが起きるとの予言より悪いことが起きるとの予言のほうが多いようだが、それは未知なる未来に対して人々は漠然とした警戒感を持っているので、不安感を煽りやすいからだろう。

 悪いことが起きるとの予言は終末論と相性が良く、神による最後の審判とか末法とか、終末論と宗教の相性も良い。宗教が示す終末論は、神や仏など絶対者への信仰によって救われるとのストーリーに信者を導く。終末論によって不安を掻き立てられて敏感になった心理に、終末にも神や仏の救いがあると説く。

 終末論に踊らされた人は、恐怖の大王が現れずに1999年の7月が過ぎ、肩すかしを食らった。だが、終末論をはやし立てた人々は「次」の終末論を待っているのかもしれない。気候変動論やロシアや中国と欧米の対立激化、地域紛争の勃発など地球規模での不安材料は続々現れるので、感化されやすい人は新たな終末論を受け入れ、自己の不安感を正当化する。