望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

恐れと可能性

 恐れとは「恐れ怖がる気持ち」で、畏れ・怖れとも書くと辞書にある(怖れは恐れと同じように使われるが、畏れは神仏や上位の人に対する敬意や尊敬を表わす時に使われる)。虞れは「いやな事が起こるのではないかという心配」で、豪雨の虞れがあるなどと使われる。おそれの表記は新聞用語では「恐れ」に統一している。

 天気予報で「明日は大雪になる恐れ」「関東地方では大雨になる恐れ」「台風が未明に九州に上陸する恐れ」などの言い方は珍しくなく、防災情報などでも「潮位変化による災害の恐れ」「津波警報を発表している地域では、被害の恐れ」とか「豪雨により土砂崩れの恐れ」などと、恐れが多用されて警戒が呼びかけられる。

 自然災害に人は無力であることが多く、各種の自然災害に苦しめられてきた。気象や防災情報を提供する側も自然災害には無力で、的確なタイミングで適切な情報を提供できていないとの批判が高まって以来、気象や防災情報で「〜〜の恐れがある」と事前に人々に警戒を強く呼びかけることが増えた。

 この「恐れがある」は頻繁に天気予報などで使われるようになり、その言葉を素直に信じる人々は不安をもつ。だが、自然災害に対して人々ができることは避難することだけだったりするので、不安ばかり増大する。最近は温暖化による自然災害の頻発や大規模化が喧伝されるので、いっそう不安は増すばかりか。

 だが、例えば、「大雨になる恐れがある」とは「大雨になる可能性がある」ということだが、確率が示されることはほぼない。大雨になる可能性が90%なら、ほぼ間違いなく大雨になると多くの人は受け止めるだろうが、その可能性が50%なら受け止め方は人によって異なり、20%なら傘を持たずに出かける人がいるかもしれない。

 気象や防災情報を提供する側が「大雨になる恐れがある」と言う時には確かな根拠があるはずで、それは経験則だけではなく大雨が起きる確率を計算しているはずだ。大量の観測データを集めて高性能コンピューターで分析して予報を作成しているのだろうから、「恐れがある」の確率(可能性)を示すことができるはずだ。

 確率が明示されず、不安を高める情報提供は社会統治にも活用される。今回のパンデミックで政府や自治体は、感染拡大のたびに「新規感染者は過去最多になる恐れ」などとの予想を撒き散らし、営業制限や外出自粛などを打ち出し、不安に駆られた人々は従ったりする。恐れを、可能性ではなく恐怖と解釈する人々は多いらしい。