望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

記録と表現

 写真を撮ることは誰にでもできる日常の行為となった。その昔には、カメラは高価で写真を撮ることが特技であった時代があり、映像データのデジタル化ができず、写真を撮るにはフィルムカメラが必要だった頃には、写真を撮ることは家族などの思い出を残すための行為であったりした。

 デジタルカメラが登場したのは1980年代で、カメラ機能が搭載された携帯電話が発売されたのは1999〜2000年だった。携帯電話で写真を撮り、それをメールで送ることが手軽にできるようになって、写真を撮るという行為は特別なものではなくなった。スマートフォンではカメラ機能の高度化が進み、どこでも誰でもスマホを手にして写真を撮り、SNSなどに掲載することが世界的にも一般化した。

 こうしたスマホなどで撮った写真の大半は「記録」としての写真であり、背景に余計なものが写り込んでいることも珍しくなく、傾いていたり、シャッタータイミングが悪いこともよくある(手ブレはカメラ機能で修正されたりするようになった)。それらは笑って済まされ、家族や友人、自分や旅行先の風景などを写すことが目的だから、被写対象を中央に配置した写真が大量に出現した。

 一方で、構図や色彩などに工夫した「表現」としての写真がある。こちらはプロが撮るものとされるが、スマホでも撮影可能だからアマチュアでも撮ることができる。高画質の写真を撮ることも可能になったスマホの多彩な機能を使いこなして、単に人物や風景を写すのではなく、狙った「表現」に仕上げ、さらには手軽に簡単な修正や加工も施したりして、自分の作品に仕立てる。

 「表現」としての写真を撮る代表的な写真家に森山大道氏がいる。森山氏の写真は、例えば、新宿をテーマにしたものであっても、そこに表現されているのは、どこの街で撮ったといっても通用しそうな写真だ。渋谷でも池袋でも銀座でも六本木でも、更には世界のどこかの街で撮ったと言われても納得しそうな写真となる。それは森山氏の「表現」として自立している写真だ。

 「記録」としての写真を撮る代表的な写真家は戦場写真家だ。どこで何が起きているのかを現地に行って写すのが報道写真家だが、危険が伴う現場にも行く人は多くはいないだろう。だが、戦地や紛争地などで何が起きているのかを映像として伝えるためにはカメラを持った誰かが行く必要がある。戦場で撮影された写真は写真家の周辺で起きたことを写したもので戦争の全体像ではないが、そうして撮影された写真などで人々はその戦争のイメージをつくり上げる。

 戦場を写した写真は「記録」だが、戦争の悲惨さや惨さ、巻き込まれた人々の苦悩などを「表現」した写真でもある。戦場では構図や色彩や表現法などに工夫する余地はないだろうから写真家の意図による「表現」ではない。「記録」が同時に「表現」になる写真は、伝える情報量が圧倒的で見る人々の感情を揺さぶる場合に限られる。