望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

俺の自叙伝

 大泉黒石1893年明治26年)、長崎で生まれた。父親はロシア人外交官のアレクサンドル・ステパノヴィチ・ワホーヴィチ、母親は本山ケイだが黒石を出産後に死亡した。黒石は祖母に小学3年まで長崎で育てられた後、父親が勤務する中国の漢口に行ったが、父親が死んだので父方の叔母とモスクワに行った。

 黒石はモスクワの小学校に入れられ、数年後に叔母に連れられてパリに移り、リセ・サンジェルマンに入った。「巴里に三年いたが勉強は何もしなかった」黒石は、酒を飲むことを覚え、仲間と大騒ぎしている酒場に踏み込んだ巡査に捕まったことが学校に知れ、退学させられた。黒石は印刷関係の手伝いをしながら雑誌に投稿したりして過ごした。

 日本に帰国した黒石は長崎の中学の3年に編入され、卒業した時には21歳だった。祖母に「露西亜で偉い人間になってくる」と言って黒石はペトログラードに行って暮らしたが、1917年のロシア革命の騒ぎで「硬化した男や女の屍が、他愛もなく重なり合って雪漬けにされていた」市中で銃撃戦に巻き込まれ、同棲相手が「顳顬の少し上の頭骨を通貫かれて」殺され、黒石は日本に帰国した。

 「日本へ帰った俺は、直ぐ京都の高等学校へ入った。間も無く日本人を妻に貰って東京へ来た」黒石は生活に困窮し、原稿を買ってもらおうと雑誌社回りをするがていよく断られ、「豚の皮を草履の裏に仕立てる」手伝いをしたり、屠牛場で牛を殺す仕事をしたりしながら、「原稿を拵えて売る気に」なって夜明かしで書き上げた『豚の皮の新考案』が採用され原稿料を得た。

 こうした半生を奔放な語り口でつづったのが『俺の自叙伝』だ(岩波文庫)。1919年に雑誌に掲載されたのが初出。文学を高尚なものと崇めていた時代に、思いつくままに饒舌に語る黒石は人々に歓迎されて人気となったが、当時の文壇に並ぶ作家たちには警戒され、誹謗されたという。黒石の饒舌な文体が当時の作家たちの文学概念を揺さぶったのだろう。

 例えば、「俺は苦しまぎれに酔っ払って女郎買いに行くんだ」という文章は、小説にしようとするなら「私は自分の心を酔わせ、神経を麻痺させる事によってのみ、一刻の猶予もなく私を追求する不安や焦燥から逃れようと試みた。または、激しい酩酊が必然に導く一切の思慮分別を無視した精神状態の中に、私の出口を持たぬ猛烈な野生を爆発させようと試みた」とするんだねと編集者が言うような時代だった。

 自叙伝とあるが、作家の創作力も随所に発揮されているだろうと感じさせる作品であると同時に、当時の時代が記録されている作品である。現代に比べて人々が貧しく、国々も貧しかった当時、人々は毎日を食いつなぎながら、仲良くしたり助け合ったり摩擦を起こしたり喧嘩したりしながら暮らしていた。5月に発売された『俺の自叙伝』は好評らしく、重版が決まったという。