望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

100年前は1923年

 全ての人々が国政に関与できる普通選挙法の制定を求める運動が広がるとともに、東京で約10万人が参加した大示威行進が行われたのは100年前の1923年(普通選挙法の成立は1925年)。西日本の各地で水平社の設立が相次いだこの年、各地で労働組合が3悪法(過激社会運動取締法・労働組合法・小作争議調停法)反対デモを行うなど大正デモクラシーは高まりを見せた。

 密出国していた大杉栄がパリ近郊のメーデーに参加して検挙され、強制送還されて帰国したのはこの年の7月だったが、9月の関東大震災の後に憲兵隊に拘束されて密かに扼殺された(伊藤野枝と6歳の甥の橘宗一も殺害された)。関東大震災の後には朝鮮人暴動の流言が広がり数千人が殺害され、社会主義者らに対する弾圧も行われた。

 関東大震災マグニチュード7.9、震度7震源相模湾北西部。死者・行方不明は約10万5000人、重軽傷者5万人以上という大災害だった(火災による死者・行方不明が9割弱と圧倒的に多かった。東京で夜に気温が46℃にもなった)。家屋の被害は甚大で全焼は約38万1000、全壊約8万4000、半壊約9万1000。損害額は約55億円と推定された(当時の国家予算は約15億円)。

 12月に摂政宮裕仁が難波大助に虎ノ門で狙撃された事件が起き、責任をとって山本権兵衛内閣は総辞職した(難波大助は大杉栄らや朝鮮人の虐殺に憤激して報復を企てたともされる)。この年、関東大震災のため京都に映画の中心が移り、マキノキネマや東亜キネマが設立された。7月に有島武郎が軽井沢の別荘で婦人公論記者の波多野秋子と心中し、死後に著作や関連記事を掲載した雑誌が売れた。

 この年に創刊された雑誌は多く、「文芸春秋」「講座」「アサヒグラフ」「少年倶楽部」「エコノミスト」などがあり、「赤旗」や「大阪都新聞」「アサヒスポーツ」も創刊された。東京相撲では待遇改善を求めて力士会がストライキを行い、小樽で第1回全日本スキー選手権大会や州崎埋め立て地で自動車大競争会が開催されたのも1923年だった。

 孫文は1月に中国国民党宣言を発表し、ソビエトが中国革命支援を表明、2月に孫文大元帥として広東軍政府を再建した。ソビエトから軍事などの顧問団を受け入れ、蔣介石を団長とする軍事使節団をモスクワに派遣するなどコミンテルンの関与で共産党との協力へ向かった(翌24年に国共合作=第一次=が成立)。

 11月にヒトラーらがミュンヘンバイエルン政府打倒の一揆を起こしたが、2日間で鎮圧された。これは1月に仏・ベルギー軍がルール地方を占領したがドイツ政府は穏やかに抵抗したのみで、急激なインフレやゼネストなどで国民生活が疲弊し、政府批判が強まる中で軍事独裁政権の樹立を目指して決行された。イタリアではムッソリーニが選挙法を改正して独裁体制を強めた。