望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

100年前は1924年

 前年の関東大震災は家屋の全焼が約38万、全壊約8万4000、半壊約9万という甚大な被害をもたらし、その復興・復旧が本格化した1924年大正13年)。1月には前年9月の震災後に宮城前にできていたテント村が解散した。震災後に女子の洋装が広まり、震災で市電のレールが破損したためアメリカから輸入されたフォードの小型バス(円太郎自動車)が走り始めた。

 前年12月の虎ノ門事件により第二次山本権兵衛内閣が総辞職し、枢密院議長・清浦奎吾を首相に貴族院勢力を基礎とする清浦内閣が1月に成立した。すぐに政友会・憲政会・革新倶楽部は「特権階級内閣だ」として清浦内閣の打倒運動を開始、政党内閣の樹立を目ざす第二次憲政擁護運動が高まり、2月に上野精養軒で護憲全国記者会が開催された。

 清浦内閣は衆議院を解散したが、5月の総選挙で憲政会が第一党になり、護憲三派が絶対多数を獲得し、6月に清浦内閣は総辞職して護憲三派加藤高明内閣が成立した。7月に衆議院貴族院制度改正に関する建議案を可決、9月に政府・与党3派の普選連合協議会が普選案大綱を決定した。

 モボ・モガが銀座を闊歩し、夏の簡単復(アッパッパ)が流行したこの年、1月に摂政裕仁久邇宮良子が結婚式を行い、恩赦で甘粕が減刑された一方、11月13日に難波大助に死刑判決が下され、2日後に死刑が執行された。新潟などの農村で女子の出稼ぎ(女工)が増加し、12月には婦人参政権獲得期成同盟会が結成された。

 3月には全国水平社大会で小学校における差別撤廃決議が採択され、八戸で大火があった5月に沸蘭西現代美術展でロダンの彫刻「接吻」は鑑賞を制限する特別室扱いにせよと警視庁が通告し、フランス外務省が抗議した。7月に全ての計量をメートル法に統一することになったこの年、日比谷公園バラック商店の営業が禁止され、東京に婦人職業紹介所が設立され、大阪のカフェに初のジャズバンドが登場したり、麻雀が流行したり、男のオールバックが流行した。東京市内の自動車は1万台。

 4月に国民政府建国大綱を発表した孫文は11月に神戸で「王道は徳と正義、覇道は力と策略、日本はアジアの王道の干城となるのか西洋覇道の犬となるのか」と、アジアの王道と西洋の覇道の違いを強調する大アジア主義演説を行った。孫文は12月に北京に入ったが、病魔に侵されていた。3月にイタリア総選挙でファシスタが65%を獲得し、5月にドイツの国会選挙でナチス共産党が躍進した。

 米国では4月に両院で新移民法が可決され、アジア人の移民が禁止された。中国人の移民はすでに禁止されていたので同法は日本人移民の禁止を意味し、NYで日本国債が急落し、円為替相場も下落した。KKKによる排日運動が激化し、日本では新聞が反米熱をあおるなど親米論が後退し、日本人の移民先はブラジルなどへ移った。6月にはフォードが1000万台目の自動車生産を達成した。

 築地小劇場が創設された日本では帝劇や歌舞伎座が落成し、第8回パリ・オリンピックで三段跳び織田幹雄が陸上初の6位入賞を果たした。米の排日に反発して米映画の上映反対運動が起き、東京15新聞社が米の排日移民法に反対して共同宣言を発表した。大阪毎日新聞大阪朝日新聞が100万部を突破し、正力松太郎が読売新聞を買収した。この年に亡くなった有名人にはレーニンカフカ松方正義黒田清輝アナトール・フランスプッチーニ富岡鉄斎らがいる。