望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

崩れる

 こんなコラムを2005年に書いていました。

 フランス各地で起こった自動車への放火などの暴動は、同化主義の限界を示すものととらえられているようだ。一方でロンドンの地下鉄テロが移民二世によるものだったことから、多文化主義にも疑問の目が向けられている。


 この二つは,大いに異なるものであるかのように言われているが、実態は同じである。つまり、移民は低賃金労働者としてしか社会的存在意味がない。奴隷制度ならば人権尊重の理念に反するが、自由意思でやってきて低賃金で働いているのだから自己責任だとされる。


 定住した移民にも生活があり人生がある。子供も産まれる。その子が先住の白人と同じ1人のイギリス人,1人のフランス人として社会に受け入れられれば,それぞれの社会的理念を生かすことができたのかもしれない。だが、「学校は選別の場,行政は失業問題に無策,警察による差別は日常茶飯事」(朝日新聞)だったというから、同化主義も多文化主義も社会を装飾する言葉でしかない。


 欧州では日本同様,人口減少から移民を受け入れて行くことが必要だとされている。しかし、社会の主導権は渡さず、移民もその子孫も不満を持たずに、いつまでも低賃金労働に従事していてほしいというのは虫のいい注文だ。欧州の低賃金労働も本国での生活に比べれば上等だと実感できる移民一世ならともかく、欧州で生まれ育った移民二世,三世らは、その社会の中での相対的な貧しさに押し込められている自らの境遇に不満を持つ。


 社会内の棄民とされた人々が異議申し立てを行うのは当然である。民主主義や人権尊重をうたっている社会であるなら、異議申し立ては主権者が行うべき義務である。多大な犠牲を伴いつつ市民が権利を主張して民主主義を勝ち取った社会は、各人の権利の主張によって受け継がれ支えられる。だが…という言葉が聞こえる。「権利の主張は認めるが,いきなり暴力を用いるのは駄目だ」と。「暴力を用いて問題を顕在化させなければ,聞く耳さえ持たなかったではないか」という声も聞こえる。


 ホワイトバンドというものが流行っている。アフリカなど世界の貧困問題に関心があることを示すシンボルだという。「へえ、いいお考えで。で、あなたは次に何をやるんですかい?」とホワイトバンドをつけている人に問うてはいけないらしい。例えば,自分の生活レベルを引き下げて浮いた金をどこかに寄付するなんてことを期待してはいけないのと同様,欧州がアフリカなどの貧困対策に予算を振り向けるわけではない。アフリカ各国の債務の削減をしようと日本などを巻き込もうとするのがせいぜいである。アフリカを植民地にしてさんざん収奪してきた欧州が,債務を削減されて、ゆとりの出たアフリカで商売しようとの魂胆が見え透いている。


 民主主義なり人権なりの理念を高く掲げる欧州国家が,その理念は自分たちにしか適用されないという但し書が密かにあることを示す事例には事欠かないが,最新の事例がフランスでの暴動であると見た方が良さそうだ。