望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

テロリズム考

 こんなコラムを2001年に書いていました。

 1969年公開の「日本暗殺秘録」という映画は東映オールスター出演の映画だが、内容は血盟団事件の小沼正を中心に描いたものだった。

 映画については別に論じるとして、デフレ不況が深刻化し、失業者が増え、一方では官僚の腐敗が常態化、政治家は利権目当てに右往左往、経済人は経営責任を取らないという現在の日本。自殺者が1日当たり100人近く、東京では街中の小さな公園にもホームレスが住み着き、国債乱発で日本の国家財政は破綻寸前、インフレにして国や企業の借金を目減りさせようとの声が高まっている。しかし、インフレになっても失業者が溢れているのだから、給料は上がらず、人々の生活が苦しくなるだけ。

 今こそ「天誅」と要人に対するテロリズムがあってもおかしくない時代だという気もするが、そんな気配はない。なぜか。小悪人はいっぱい溢れているが、大悪党と思しき人物がいないからだろうな。つまり、こいつを除けば日本は良くなる…というほどの悪党が見えない。

 テロリズムが日本で1960年代以降、影を潜めた最大の理由は、民衆が政治的な意思表示を直接的に行うことができるようになったことが大きい。

 その一つが60年安保で大規模なデモが行われ、政治に大きな影響を与えた。政治的意思表明が官憲に弾圧された戦前とは異なり、時の政権に人々がデモで「ノー」を表明できる社会体制となった。

 その二。憂国派のテロリストは「困窮する民衆のために自らは捨て石になる」「身を捨てて政治を正す」という一種のヒロイズムを持つことができたが、民衆が政治的な意思表明を直接行うようになったことで彼らが民衆幻想を持てなくなった。

 第三に、冷戦の終焉もあってか1990年代に入って日本でも選挙による政権交代が行われるようになった。1票の格差などを見ると、民主主義は日本ではまだまだ不徹底だと言わざるを得ないが、戦前に比べると格段に民意が国政に反映するようになった。

 では、テロリズムは方法論として無効になったのか。「民衆の政治的な意思表示の代弁」としてのテロリズムは有効性を失ったと言えるが、「個人の政治的な意思表示の手段」としてのテロリズムはあり得る。イメージでいうなら、個人が大統領らを狙うアメリカ型か。