望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり





リベラルな防衛論

 世界は善意の人々であふれ、平和共存を望む国々ばかりだ……それが本当だったら、平和憲法日米安保に縛られて身動きがままならない日本にとっては好都合だったのだが、中国の軍拡や北朝鮮核武装でにわかに東アジアの緊張が高まってみると、日本は、おたおたするばかり。



 その原因は、戦後の日本の平和論、防衛論が割れたままで、いずれも弱点を抱えていたことと、冷戦後に再構築できなかったこと。それに、欧米などの「民間主導の資本主義」と中国などの「国家資本主義」の対立という新しい世界の枠組みに対応した日本の戦略が不在であることだ。



 日本の平和論の1つは、絶対平和主義的な主張。平和憲法を固持し、軍事力に頼らず国際的な緊張緩和を進めるべきだというもので、空想的平和論といえるかもしれない。この主張の弱点は、善悪を絡めた観念論が多く、武力によらずに国際的な緊張を緩和するために日本は何をすべきかという具体論が少ないことだ。他国の善意を信じるしかないところがツライ。



 別の平和論として、平和を維持するためには、現実には軍事力が抑止力になるのであるから、日米安保を基軸に防衛力強化を進めるべきという主張がある。現在の日本はそうした路線にあるが、さらには自主防衛論もある。日本の防衛の主体は日本が担うべきだとする主張で、日米安保を従とする。



 この2つの弱点は、日本が行った先の戦争や旧日本軍と断絶していないこと。そうした主張をする者の中から、自衛のためだったなどと先の戦争に肯定的な見解が時おり飛び出して来て、日本軍国主義復活などという批判を喚起してしまう。



 ポツダム宣言を受諾して旧日本軍は無条件降伏した。武装解除されて、軍隊は解体された。それどころか、敗戦により日本の独立が失われた。旧日本軍はボロ負けしたのである。ボロ負けした戦争やボロ負けした軍隊を肯定したり、シンパシーを感じるのは個人の自由だが、ボロ負けした戦争やボロ負けした軍隊を否定しなければ、強い軍隊は生まれまい。負け戦を批判的に検証することは必要だが、引き継ぐことは禁物だ。



 先の戦争や旧日本軍との断絶……これは日本の政治にもできなかった。その象徴例としてよく挙げられるのが、戦前は東条内閣の閣僚だった岸信介の戦後の首相就任。軍を文民統制すべき戦後の政治家が戦前を引きずっていたのでは、自主防衛論者や自衛隊関係者らが、戦前を懐かしむことを排除できるはずがない。



 先の戦争や旧日本軍との断絶を政治的に明確化するには、日本の政治家・政党が徹底的に先の戦争や旧日本軍を否定するしかない。そこから、日本の自主防衛論が正当化される道が開けようし、アメリカを含めて諸国から容認される可能性が出てくる。