望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

サムライ意識と直接民主主義

 こんなコラムを2006年に書いていました。

 メール騒動で民主党の渡部国対委員長が、サムライは引き際が大事だというような言い方で永田議員を批判していた。メール騒動と民主党を切り離すためにも、潔く議員を辞職してメール騒動にけりを付けろということなのだろう。日本の議会制民主主義が機能するためには民主党にしっかりしてもらわなくてならないが、どうにも引っかかるのがサムライという言葉だ。自民党の政治家の中にも、国会議員をサムライ、武士になぞらえる人がいた。

 彼らの感覚はおそらく、江戸幕府の幕閣と自分らを二重写しにしているのだろうが、選挙で選出される議員がどうしてサムライといえるのか。士農工商身分制度の最上位とされ、江戸期の政治を独占していたサムライは制度上、特権階級であった。選挙で選ばれてサムライになったわけではない。国会議員であることに奢り高ぶっているのではないかという懸念が、サムライ発言からは拭うことが出来ない。

 善意に解釈して、渡部氏ら国会議員をサムライになぞらえる人々は少しのプライドとともに、出処進退のけじめを潔くつけるという意味でサムライを自負していたのかもしれないが、武士に潔さが強調されたのは、実態がそうでなかったから倫理的なものとして強調せざるを得なかったのであろう。ヘマをした武士が全てハラキリをしたわけではない。むしろヤクザの指詰めの方が割合としては遥かに高いかもしれない。

 フランスでは若者向け雇用制度(CPE)をめぐり、学生らが街頭デモで反対の意思表示をし、労組もストで反対の意思表示をしている。政府の重要施策が街頭デモや労組のストで揺らぐのは健全な民主主義ではないという意見もあるが、人々が反対の声を上げても政府も議会も取り上げず、何の変化もないという状況こそ民主主義の陥穽である。選挙で選ばれたことで議員は国民の負託を受けたのではあるが、議員は白紙委任されたのではないことを自覚すべきだ。

 こうしたギャップを埋めるためには、焦点を一つに絞った国民投票制度を導入すべきだろう。フランスでもCPEに関して国民投票を実施することが出来れば、街頭行動も抑制的に終わったかもしれない。議会制民主主義にどれだけ直接民主主義を取り入れていくかが日本を含め各国の議会制の課題である。

 サムライ発言とフランスでの街頭行動、この二つが示しているのは人々と議会の距離である。さらに言えば、政治を人々が自分たちのものと捉えているか、政治は「お上」のものと捉えているかの差である。

 CPEは、26歳未満の人間を雇用すれば2年間は理由をいわずに解雇できるという制度だ。日本でも若者の失業率は高い。就職できずにニートやフリーターと呼ばれるようになる若者もいる。若者の解雇だって、適当な理由を付けて実質はやりたい放題に近い。向上心がなく人生に投げやりな若者が新しい下層階層を形成するという見方もある。

 政治に対する異議申し立てのための街頭デモはフランスの若者の成長過程の一つで、通過儀礼だという見方がある。では日本の若者はどういう過程で政治的に成熟していくのだろうか。自己主張を抑制し、「強い指導者」に投票することで自己を仮託するだけでは民主主義そのものが根腐れしていく。