望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

「平等」が隠れたテーマ

 20世紀にはマルクス主義による国家形成が世界で試みられたが、失敗しました。労働者を主体とする人民が権力を独占するというアイデアは、結局、「前衛的」指導者層という新たな特権階級を生み出し、人民はやはり権力から遠ざけられました。

 資本主義1色に世界は塗られたかのように見えます。「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」から「能力に応じて受け取る」ばかりが喧伝される世になりました。

 日本では、「成長するためには改革が必要だ」(改革なくして成長なし)ということで社会主義的な政策の見直しが進み、健康保険、年金、増税など国民の負担増が相次いでいます。国家の機能として所得の再配分があるのですが、消費税の増税を繰り返す日本では、所得の再配分は棚に上げられたままのようです。

 人民が権力を持つという考えは、国のあり方としては国民主権であり、政治のあり方としては民主主義です。世界的に認知されているといってよいでしょう。では、それをどう実現するか。自由選挙だけに限定されている感もあります。

 平等という言葉があります。何をして平等とするか(言い換えれば、何をして不公平とするか)の解釈は各人各様でしょうが、その精神は「人間は皆同等だ」「人間は皆同じだけの権利をもっている」ということです。それを政治的にどう実現するか、この課題への取り組みが日本では鈍いようです。いや、世界的にも鈍いようです。

 平等という考えは政治的に役割を終えたのでしょうか。欧米では反WTO反グローバリズムの運動が行われていますが、抵抗運動ではあっても新しい理念の表現としての運動ではないようです。

 では、平等は政治的に「死んだ」概念なのでしょうか。おそらく、競争が正当視されているかぎり平等は粗末に扱われるでしょう。共生という言葉が、環境問題に絡めて言われています。地球上の人間達が共生できず、あちこちで殺し合っている時に、なんて甘ったれた言葉だろうとも思いますが、人間に限定して共生という言葉が現実的に使われるようになった時には、平等という言葉も大切に扱われるようになるはずです。

 いや、平等を実現する新しい思想が誕生したときに、世界の人間の共生も実現するのかもしれません。そんな動きがいつ起きるのかは不明ですが、21世紀中には、平等を実現する新しい思想が生まれると期待したいものです。