富や権力を持つ人々を上級国民と呼ぶのは褒め言葉ではなく、優位な位置にあることを皮肉ったり批判している。富や権力を持つ人々の言動に特権臭が漂った時などに、反感を感じた人々が用い、不公平が厳然と存在する社会に対する憤りを滲ませる。とはいえ、上級国民の存在は許せないと公平な社会への転換を求めて具体的な運動につながることは少ない。
この言葉は古くから使われていたというが、流行語大賞の候補になるほど広まったのは2019年だった。元高級官僚の87歳男性の運転する車が暴走し、2人を死亡させたが、逮捕は見送られた。法の下の平等が歪められたと見え、この男性が死亡事故を起こしても特別扱いされたのは上級国民だからだと批判が巻き起こった。
その上級国民でもある高級官僚が現役中も民間企業から接待を受けて、飲み食いしていたことが次々に明らかになった。総務省と農水省での複数の事例が報じられたが、他の省庁ではどうなのか。総務省と農水省の高級官僚だけが接待に応じていて、他の省庁の高級官僚は厳しく自己を律しているとすれば慶賀の至りだが、実態はどうなのか詳らかではない。
上級国民になるには富か権力を手に入れることが必要だが、高級官僚になれば権力に関与することができ、退官後も業界団体や民間企業を渡り歩けば相応の地位を確保し、金を蓄えることもできよう。高級官僚にならなくても金持ちになることはできるが、権力に関与するためには、それこそ高級官僚を接待して親密な関係を構築して影響力を保つことが必要になる。
金持ちになることは誰もが望むだろうが、企業で真面目に務めていても出世できるとは限らず、運やチャンスをつかむことが必要だったりする。一方、高級官僚になる道筋は明確だ。東大などを卒業して霞が関の中央省庁に入り、間違いを起こさずに勤めつつ細かな成果を積み上げ人脈を築いていけば高級官僚に近づくことができよう。上級国民になる道は、狭いけれど、誰にも開かれている?
上級国民という言葉が社会に素直に受け入れられたのは、人々が日々感じている不公平感をうまく言い当てていたからだ。そこに上級国民は特別扱いされると見せつけられれば、反感はいや増す。貧富の差などはあっても、人としては皆平等である社会のはずなのに、上級国民が特権階層化している現実。上級国民よりも遥かに多数の一般国民(下級国民?)が納得し難いのは当然だ。
日本を含め各国には古くから富や権力に関与する特権階層が存在した歴史がある。人間社会では特権階層の存在は避けられないのかもしれないが、民主主義や人権意識の定着とともに特権階層の存在に肯定的な評価は与えられなくなった。上級国民という特権階層に人々の反感や批判が向くのは、特権に付随するはずの責任感や倫理観が希薄だからだ。