望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

大きな土砂崩れ

 21世紀を迎える前には、新しいことが始まり、「未来」がいよいよ人類の前に具体的な姿を現しそうな気になっていました。21世紀に入って、せめては戦争だけは抑止されるようになったかというと、そんなことはありません。国家対国家から国家対組織へと戦争が拡散し、国家対国家の戦争よりハードルが低くなりました。

 21世紀になって最も大きく変化したことは共産主義の影響がなくなったことでしょう。共産主義は、社会の多数を占める労働者が主体の社会をつくるという理想とは違い、現実には共産党指導層の独裁体制となり、新たな特権階層を形成して強権による支配が社会の停滞を招き、崩壊へ繋がりました。しかし、共産主義国家の存在は資本主義国に緊張を与え、資本主義国でも働く人々の労働環境に配慮をしなければなりませんでした。しかし、もう共産主義の影響はなくなりました。労働条件、労働環境の「見直し」が、あたかも、そうすることが世界標準であるかのようにPRされて進みました。

 日本はバブル崩壊後のデフレ不況の時に、企業生き残りのために社員(労働者)を切り捨てました。売り上げが減少し続ける時に、企業存続のためには固定費削減=人件費削減がやむを得ない手段だったのかも知れません。しかし、落語ではありませんが1人、2人、10人、20人……社員を減らしても何とかやっていけるし、その方が利益が上がると経営者が「味を覚えた」のも確かでしょう。一方で派遣や請負など非正規雇用が政策的に拡充されました。いまや非正規雇用者は2千万人を超え、働く人の3割以上になるといいます。ワーキングプアという、仕事に就いていても超低収入という人々の存在も明らかになりました。

 日本のGDPの6割以上は個人消費です。その個人消費が、低収入の人々が増えることにより、どのような影響を受けるのか。試算は当然なされているのでしょうが、表には出てきません。マスコミも独自にそうした計算をしようとしません。派遣や請負の拡大・定着化や残業代カットなどが日本のGDPにどのような影響を与えるのか、さらには数十年先、そうした低収入の人たちがリタイアする頃、年金や医療などの社会的負担はどのようになるのか、まともに考えられているような様子はありません。勝手に生きろ(=勝手に死ね)ということでは、そんな社会に誇りを持つことができる人は、一部の「勝ち組」だけでしょう。社会が荒んでいくだけです。

 いささか単純化して、共産主義国家とは国家権力が資本を所有している形態、資本主義国家とは資本が国家権力を所有している形態と見なす時、資本主義国家で大多数の人々の意向を政策に反映させるには、選挙等で国家権力に対する人々の影響力を拡大していくしかありません。ただし、そうした流れを気に食わないとする人々もいます。そうした人々は、国家権力への人々の同調・依存を演出し、人々への国家権力の影響力を拡大しようとします。おそらく双方とも民主主義を謳うでしょう。