望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

中国人の愛国主義

 愛することは普遍的な行為で人類が共有するものだが、誰を愛するか何を愛するかは個人の選択に任される個別的なものだ。愛するという普遍的な行為は、現れる時には個別的で特殊なものとなり、それは多彩で様々な形態や展開となる。もちろん、ある個人を複数の人が同時に愛することは珍しくないだろうし、例えば、ビートルズの音楽を愛する人は多数いるだろうから、共有する愛も存在する。

 共有する愛の一つに祖国愛がある。それはかならずしも国家に対するものではなく、郷土愛と未分化であることも珍しくないが、近代国家においては国家を愛することを国家が主導し、奨励し、強制し、祖国愛と愛国主義が同一のものとされたりする。素朴な郷土愛の対象は人々が生まれ育った風土だろうが、そこに国家が重ねられ、愛国主義が自然なものであるように演出される。

 国家を愛するという人々は、郷土や風土を除くと、何を愛しているのだろうか。政府や体制に対する熱烈な支持がしばしば愛国主義の具体的行動として現れる。政府や体制を支持することは政治意識に促される行為であり、政府や体制は本来、感情が大活躍する「愛する」対象にはふさわしくない(だが、政府や体制を愛することは禁じられてはいない)。

 人は愛する対象との距離を縮めようとする。政府や体制を愛する人々は国家に対する帰属意識を、政府や体制との距離を縮め、一体になると感じることで満足させているのかもしれない。そうした一体感は、権力に関与しない人々には実態を伴わない「片想い」でしかないのだが、政府や体制との一体感は自己肯定感にもつながるから心地よさを実感することはできよう。

 愛は盲目とも言う。対象を肯定的にだけ見ることで可能になり、持続する愛なら、愛する対象に対する批判精神は抑制される。対象を愛しつつ批判もすることは可能だが、それは誰にでも、いつでも可能であるとは限らない。政府や体制を愛するという愛国主義の欠陥は、人々から常に批判されなければ「腐りやすい」政府や体制に対して盲目になることだ。

 愛国主義という国家に対する愛は個人が感じるものだが、しばしば集団的な行動となって現れる。国家に対する帰属意識愛国主義を支えているのなら、個人より国家を上位に置く集団主義との親和性は高い。個人があって集団があるのではなく、集団があって個人があるという集団主義は、同調しない個人や組織などを攻撃し、自由な言動を制約するなど排他性を帯びる。

 愛は対象を縛ることがある。愛するに値するように対象は常に立派でなければならないと求め、対象の自由を縛る。国家が煽る愛国主義は同調する人々が増えるにつれて、その愛国主義から逸脱する行動を制限する人々の圧力が増し、かくして国家も人々も愛国主義を抜け出せなくなる。国内で愛国主義を煽る中国共産党もその愛国主義に縛られ、内外政治における自由裁量の枠が狭まっている。人々が強く愛国主義に駆り立てられるほどに、その愛に値する政府や体制であり続けなければならなくなる。