望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

終わった人なのに

 こんなコラムを2003年に書いていました。

 石原慎太郎氏に都民は何を期待しているのか。石原氏の強者としての物言いがウケており、投票した人が自己投影しているのではないかという疑いがなきにしもあらずだが、政策としての何が高い支持に結びついているのかが見えてこない。

 石原氏を首相候補に推す声もあった。人気で小泉氏に対抗できるというだけの思い付きのようだが、首相としての適性には触れられない。石原氏は国会議員を25年間続け、何もできず、最後は議場で啖呵をきって議員を辞任した人物である。国政において石原氏は無力だった。

 都知事になってから石原氏は煤入りのペットボトルを手にディーゼル車の排ガス規制を主張するが、石原氏が運輸大臣をやっていた時にもディーゼル車の排ガスはひどかったのであり、その時に規制を行えばよかった。なぜ、そうしなかったか。石原の頭の中には排ガスのことなどなく、都知事になってからのブレーンにそうした問題意識を持つ人がいただけだ。

 高層ビル建築ラッシュの過密都市・東京をこれからどうするのか。財政赤字はどうするのか。防災対策は進んだのか。国際都市としての東京から中国人だけを排除するのか……石原氏の頭の中にこうした問題意識の一つでもあるのだろうか。

 石原氏に対しては、小説家・石原と政治家・石原を都合よく使い分け、責任逃れをしているとの批判が以前からある。都知事になってからの例で言えば、重度の身体障害者を見て「生きている意味があるのか」というようなことを言った。生の意味を問うことは小説家としては許される疑問だろうが、都知事として視察しているときは政治家であり、許される発言ではない。

 都知事になってからの石原氏は、政治家・石原が二つに分かれ、都知事・石原と政治家(国政)・石原が気ままに現れる。そこに小説家・石原も加わり、はぐらかし、責任逃れの技に磨きがかかった。都知事、政治家(国政)、小説家の立場を自由に移動するので、どんな批判にも反論できる。

 石原氏は政治家としては終わった人物だ。終わった人物が出しゃばっている弊害は大きい。永田町においても、終わった人物が多い。森氏や中曽根氏、宮沢氏、橋本氏、土井氏など有力者とされる連中の大半が終わった人物だ。適当な時期に一線を引退し、正直な回顧録を書くのが特に権力の座にあった者の責任だろう。石原氏よ、金の流れなどを含めて国会にいた25年の正直な回想録を書くことが、都知事の座にいることよりも日本の政治に寄与できるのだぞ。