望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

権威が共に低下

 こんなコラムを2007年に書いていました。

 国際紛争を、武力によらず、話し合いで解決しようというのが国連の設立趣旨であるはず。しかし、話し合い(=対立する双方が言い分を主張する)は、双方に解決しようという意図があってこそ結論が導き出される。双方、または、どちらかに話し合いで解決する意図がない場合は、話し合いは徒労に終わる。隣国等との紛争に直面した国が物わかりのいい主張をするはずもなく、自国に都合のいい主張を繰り返すだろう。つまり国連は本来、壮大な議論の空回りを内包した機関である。


 国連の権威とは、国際社会の多数国の意思を明文化することにある。たとえイスラエルがさんざん国連決議を無視して行動し、米欧がそれを黙認しようと、国連の権威の低下を指摘する声は小さかった。実行力は弱くとも、国連決議は国際社会の意思と解決の方向を示したと受け止められた。


 しかし、アメリカが国連の「無力」に苛立っていたのも確かだ。その苛立ちは、国連がアメリカの思うように動かないことにある。安保理では拒否権を持つ国が他に4カ国あり、アメリカの最小の州よりも小さな国が国連総会ではアメリカと対等な1票を持つ。ソ連があった頃は東西の勢力争いもあってアメリカは国連を無視するような態度をとることはできなかった。しかし、冷戦終了後、飛び抜けた大国として君臨するアメリカにとって、国連は「非効率」そのものと強く見えるようになったのだろう。


 そこでアメリカは国連の利用方法を変えた。国連を利用はするが、国連に束縛されない。イラクに圧力をかけるために国連決議を利用はしたが、開戦は独自の判断で行った。9.11以降、アメリカの敵が特定の国家だけではなく、国家を持たない武装組織が対象になったことも、アメリカの行動を変えた。たとえばアルカイダは国連に加盟していない。アルカイダアメリカが攻撃するためには、アフガニスタンへの攻撃を正当化しなければならない。欧州に散らばっているアルカイダメンバーに対しては、各国の治安警察を通じて犯罪者として対応したが、アフガニスタンに対しては国家をつぶした。


 国連の権威もアメリカの権威も低下し、国際社会は一層の無秩序へと向かうのだろうか。日本では一時期、国連中心外交という言葉がよく使われた。独自の戦略を持たず、世界の流れに受け身でいることをごまかす言葉でしかなかったが、アメリカが単独覇権国として君臨するようになると、日本から国連中心外交という言葉は徐々に消えていった。代わりにアメリカべったりの外交が浮上した。もう実態をごまかすこともなく、同盟国として日米が肩を並べているようなイメージ操作さえ行われ、更には日米安保を相互防衛条約にしようとする動きも顕在化している。


 日米の関係だけで世界が動いているのではない。アメリカとともに浮き、アメリカとともに沈む…日本にそこまでの覚悟があるはずもないのに、国際社会を単独で泳ぎきれないからアメリカにつかまっているようなものだ。アメリカの権威はアメリカが考えるべきことだが、国連の機能をより高め、国連の権威を高めることは日本にも大切だろう。