望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

死者はどこへ行ったか

 「明日への遺言」という映画が2008年に公開された。日本軍の東海軍司令官だった岡田資陸軍中将がB級戦犯として裁かれる法廷場面を中心に、司令官としての責任から逃げず、すべてを一身に引き受け、部下を助けようとする姿を描いていた。藤田まことが岡田司令官を、倫理的かつ理知的で気高く生きようとする人間として演じた。藤田の独り舞台と言ってもいいような映画だが、岡田の妻役の富司純子も法廷場面でずーっと画面に映っていた。ただ台詞はほとんどなく、動きもほとんどないため、表情だけで演技していた。

 岡田司令官らが問われたのは、米兵38人の処刑の責任だった。名古屋などを無差別爆撃した米機のうち、撃墜されて脱出して捕えられた米兵38人は、捕虜としてではなく、都市への無差別爆撃という国際法に反することを行った戦争犯罪人として斬首で処刑された。



 弁護方針は、米兵が戦争犯罪人であったことを立証すること。そのために都市への無差別爆撃の非を訴える。都市への無差別爆撃が国際法に反するとすれば、ヒロシマナガサキでの原爆投下も国際法に反することになる。岡田中将が司令官としての責任を負うのなら、無差別爆撃を指示した米軍の司令官も、原爆投下を命じた米大統領も責任を問われなければならないだろう。



 しかし、弁護側の論理は破綻する。岡田中将が一身に責任を負い、部下は命令に従っただけだと言うなら、米機の乗員も同じで、上からの命令に従っただけだろう。“実行犯”として米爆撃機の乗員が無差別殺人の責任を問われるとしたなら、38人を処刑した日本兵の責任も問われる。



 映画は、岡田中将の人間性を謳い上げることが狙いだったようで、岡田中将はじめ弁護側の論理を検証はしない。映画の初めのほうで触れられていたが、日本軍も重慶への無差別爆撃を行っている。731部隊のこともあり、国際法を無邪気に振りかざすことができるような日本軍ではなかった。だから映画では、醜く責任逃れをして生き延びようとする人間ではない岡田中将の人間性を描く。その姿は感動的なのだが、何かが抜けている。



 それは死の重みだ。岡田中将は米兵処刑の責任をすべて一身に負おうとする。当然、死刑判決も予期していたであろう。仏教に帰依していたということだが、自らの死を岡田中将はどのように考え、感じていたのだろうか。そのときには当然、米兵38人の死についても考えることがあったであろう。法廷戦術と離れた時、岡田中将は米兵38人の死をどのように考え、感じていたであろうか。絞首刑になるまで岡田中将には1年以上の時間があったというが、自身と米兵の死について何を考えたのか。そこが抜けているため、偉大な日本人、軍人がいた!なんて受け止められ方をされてしまいそう。



 映画では米兵38人の名前も記されない。米機の無線士についての議論が法廷で交わされるが、名前も写真も示されない。米兵38人は誰なのか、どういう人間だったのか。それを踏まえた上で、岡田中将の気高さを描いたなら、重層的な映画になっただろう。無差別爆撃により多くの日本人が死んだ。米兵も死んだ。それらの死の責任は問われなければならない。