望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

暴力の意味

 秋葉原7人殺し事件の加藤智大は、犯行前に携帯サイトの掲示板に書き込んでいた。心情が吐露されているようで興味深いものであったことは確かだが、過大視しすぎると間違うかもしれない。当時、各メディアで多くの人が様々に解釈した。急いで原稿を書き上げた事情は解るものの、こじつけ臭かったり、自説に都合のいい部分しか取り上げていなかったりだった。カキコだけで人間像を判断しようという安直さと批判もできるが、紙面や時間を埋めなくてはならないのがメディア。



 メディアで多く指摘されていたのが、派遣労働の問題点。労働環境が改善され、不安定な雇用が規制されて少なくなることはよいことだが、あの事件とは切り離して考えるべき問題だ。派遣労働者犯罪予備軍ではないはず。新聞配達員が起こした犯罪も多いが、新聞などメディアは新聞配達員の労働環境と結びつけては論じていないゾ。



 加藤が何を考えていたかではなく、その暴力だけを見ると、計画的ではあるのに、対象が不特定多数だったことが特徴だ。ここから加藤の事件は社会に向けられた犯罪とされ、自己アピールの手段に犯罪を選択したと解釈されたりする。事前に凶器を購入し、注目を集めやすい秋葉原を犯行場所に選び、下見もしていた。しかし、殺された人々には、加藤に殺される理由はなかった。



 加藤の暴力には思想がない。感情があるだけだ。別の言い方をすると、「自分」があるだけで「他者」が希薄だ。負け組だと自分を憐れみ、仕返しだと自分の暴力を正当化する。しかし、「敵」はいない。乱暴に言うが、仕返しすべきだとするなら、秋葉原の通行人相手ではなく、派遣先や派遣会社の関係者だったはずではないか。しかし、加藤は、仕返しではなく破滅を選んだ。「自分」しか見えていないからだ。



 自分を負け組だと体制の価値体系の中に位置づけている限りは、負け組意識しか持てまい。体制の価値体系は勝者に都合良くできている。そんな価値体系を疑うことをせずに受け入れ、自分を負け組と位置づけ、非力な自分は抜け出せないと納得してしまうから、「敵」が見えなくなってしまうのだ。さらには、加藤が見ていた「自分」が実は、そんな価値体系に色付けされたものでしかなかった。



 「究極の負け組」になった加藤が今後なすべきことは、自分の暴力と向き合い、その意味を問うことだ。加藤には1人で考える時間が与えられた。彼にしか語れぬことがあるはずだ。永山則夫がそうしたように。