望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

収奪する

 資本主義の本質はギャンブルだと言う人がいる。アメリカの投資銀行などが元手を何十倍にも膨らませて(レバレッジ)、投資していた(賭けていた)ことだけじゃなく、資本主義自体がギャンブルだと言う。



 自動車でもTVでも商品は、市場に出しても確実に売れる保障がないのに、企業は生産する。売れなければ不良在庫となって経営を圧迫するのに、売れるだろうと生産して出荷する。小売企業は、売れるだろうと仕入れし、店頭に並べる。自由市場で各企業はそれぞれ、売れるだろうと生産し、販売するが、その商品が売れるかどうかは、神のみぞ知るというところ。企業は売れるだろうと期待して、賭けるしかない。



 2008年秋にあらわになった米国発の金融危機を指して、資本主義の行き詰まりの現れだと言った人がいるが、資本主義の本質(ギャンブルであるということ)が現れただけかもしれない。債券でも株でも不動産でも、売れる(流通する)と見込んでいたのに、売れなくなった。つまりギャンブルに負けた……だけ。勝負には負けたが「賭場」はそのまま残っているのだから、次の勝負があちこちで始まっている。



 アメリカの投資銀行モデルは資本主義の象徴だったのかもしれない。規制がゆるゆるになり、監視の目も甘くなったので、大儲けを夢見て投資銀行は大バクチを続けて、勝ち続けるとなかなか降りられず強欲の度が過ぎたのか、とうとう元手を失うどころか、会社をつぶしてしまった。



 一方で資本主義は収奪だと言う人がいる。カモを見つけて奪った奴が勝ち……の世界だと言う。カモはどこにでもいる。従業員、消費者、取引相手、出資者、投資家など。カモにならないためには、奪う側に回ることだが、たくさん持っているところから奪ったほうが大儲けできるので、資本同士の争いも熾烈だ。あるときは奪う側になり、あるときはカモにされてしまうのだから油断がならない。



 収奪を理論づけ正当化してきた資本主義は、奪う側が勝ち組で、奪われる側が負け組という図式を流布させて、収奪が個人の能力の差によるものであるかのような幻影を蔓延させる。そして政治による規制が緩ければ、資本主義の収奪がむき出しになり、カモは身ぐるみ剥がされる。



 身ぐるみ剥がされて、路上に放り出されて、やっと、圧倒的に多いカモである民衆の反感・怒りが動き出す……のかしら。計画経済が現実には機能しないことは20世紀の各国の実験で明らかになった。市場経済しかないという中で、万国の労働者はもはや団結せず、労働者階級なるものは千々に分裂した。正社員たちは派遣社員たちに背を向ける。



 資本は惜しみなく奪う……のだから、社会の安定を保ち、多数の人々が安心して生活を維持していくことができるようにするためには、資本に対する「有効な規制」が必要だ。米欧など世界でバブルが崩壊し、収奪する対象が減って資本主義が弱っている時こそ、「有効な規制」を実行するチャンスだった。