望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

欲があってこそ

 米ウォール街などの強欲が積もり積もった結果が2008年の金融危機だという人がいる。「舌切り雀」や「花咲か爺」などのおとぎ話のように、強欲な人間がこらしめられましたとさ、めでたし、めでたし……とでも感じるのか、経済危機に至ったことを納得してしまいそうになる。



 「強欲資本主義 ウォール街の自爆」(神谷秀樹著、文春新書)などを読むと、米ウォール街の連中の強欲ぶりの実態は、儲けるためには手段を選ばす、凄まじいものであったことがうかがえる。その強欲のとばっちりを、日本を含めて世界がこうむったのだから、しでかした結果の重大さを感じ、強欲な連中はさぞ反省したのかと思うと、そんな話は伝わって来ない。



 経済行為・経済現象をモラルによって断罪するのは筋違いかもしれないが、もっと反省してよと言いたくなる。しかし、そんな思いは強欲に振る舞ってきた連中には届かない。「バクチ」で勝った経験があるのだから連中は、数回負けたからと性根を入れ替えるはずもなく、手に入れた金を、もう荒稼ぎは当分できないだろうから、手放すはずもない。



 「奢れる者は久しからず」で強欲だった連中は滅びました……なんてことが人間世界に起こり得るだろうか。皆がそろって聖人君子になるはずもなく、人間に欲望はつきもの。様々な欲望があり、欲望の在り方や強さも幅広い。皆の欲望が渦巻き、ぶつかり合い、競い合うという人間世界では、強欲な人がしばしば力を持ったり、ウマくやったりする。強欲な人がコケると一気に反感が、正当性を得たかのように噴き出したりする。



 人間にもし欲望がなければ、「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」とかいう共産主義社会は現実世界で成功したかもしれない。しかし、20世紀に世界各地で行われた共産主義社会の実験では、人間の欲望を強圧的に抑え込むことで体制を維持するしかなかった。乱暴に言うと、人間は欲望を持つという本性に反した不自然な体制だった。



 おいしいものを食べたい、広い家に住みたい、安定した仕事が欲しい、偉くなりたい、ハワイに移住したいなどと人間には様々な欲望があり、そのために頑張ることにもなろうし、欲望の度が過ぎれば強欲となることもあろう。一方で、いくら頑張ったとて欲望がかなうとは限らない。ままにならない世の中だから宗教の出番があり、利害調整の面での政治が必要になる。



 欲望がどれくらい肥大すれば強欲になるのか知らないが、「羹(あつもの)に懲りてなますを吹く」みたいになって、人間の欲望を自制する方向に行くのなら市場経済は萎縮するばかりだ。不況がいつまで続くのか分からない中で、生活防衛のために消費には縮小圧力が加わるのだから、消費の膨張力として人間の欲望の肯定が必要となる。社会的に規制されるべき強欲を明確にし、社会的に許容される欲望と区別することが、市場活性化の第一歩かもしれない。