望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

批判できる立場

 誰かを批判するのは簡単だ。誰かが右を向けば「右を向いた」と批判し、左を向けば「左を向いた」と批判し、動かずにいれば「何もしない」と批判する。批判することが目的とあれば、対象が何をしても何もしなくても批判は可能だ。そうした批判の判断基準は、好悪の感情だったりするが、批判することで「評価する者」として優位な立場になろうとする動機に支えられていたりする。

 批判の判断基準は好悪の感情のほかに、倫理観や道徳観、政治観、経済的な利害、個人や組織などの体面や優劣争いなど様々だ。一方、判断基準が曖昧でも批判することはできる。例えば、政治的な中立を標榜し、権力批判が使命だと自認しているマスメディアなら、選挙で勝って政権を担う全ての政党を批判するだろう。保守政党でも革新政党でも、国家権力を握った政党を批判できる。

 もちろんマスメディアにはそれぞれ政策や倫理観などに関して判断基準があり、権力だからと無節操に批判するわけではないだろうが、確固とした判断基準と徹底した権力批判は時には矛盾する。権力に追随すると見られるよりも、権力を果敢に批判すると見られることを好むマスメディアなら権力批判を重視するだろう。

 個人なら、感情や倫理観、道徳観、政治観など批判の判断基準は個人の自由であり、客観性や公平性などが希薄であっても許容されるので、側から見て歪んでいるような判断基準を固守する人は珍しくない。他人が共有できない独自の判断基準を押し通す人もいて、それが個性ともなるが、関わると厄介な人として周囲からは鬱陶しがられたりする。

 権力批判を好む人がいて、マスメディアに影響されたのか、深刻ぶったりしながら権力を批判する。だが、独自の判断基準が希薄な人の批判はマスメディアの受け売りだと見透かされる。世の中は全てくだらないと見ている人なら全てが批判の対象になろうが、独自の判断基準が曖昧だと見えれば、何でも批判する「お前は、何様だ?」などと反批判されるかもしれない。

 批判は①間違いを指摘する、②間違いを責める=責任を問う、に大別される。事実関係の間違いなら批判された側は修正せざるを得まいが、事実認識の相違や判断基準の違いなどについての批判なら、見解の相違として批判を突っぱねることができる。責任問題がちらつくと批判された側が、批判を認めないことに懸命になったりもする。

 批判には、対象を否定する狙いのものや、自分を目立たせるための批判=他者攻撃がある。対象を否定する批判なら何の根拠でも持ち出して批判するだろうし、自分をアピールするための他者の批判もある。選挙などでは、相手にダメージを与える目的の批判が活発になり、批判合戦に終始する。批判することが目的なのだから、批判することで目的は達している。