望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

不安を煽る商売

 五輪が開幕する前は感染拡大の危機をさんざん煽っていた新聞やテレビだが、開幕すると一転し、日本人の活躍やメダリストのひたむきな努力ストーリなどを連日大きく扱う。東京はじめ全国で感染が拡大しているが、そうした報道は事実を伝えることが主で不安を煽ることは控えめな印象だ。中止も再延期もなく五輪が始まったという現実に合わせて素早く方向転換したと見える。

 マスメディアの方向転換は、よくある現象だ。新聞やテレビは各社のそれぞれの確固とした価値観に従って報道しているとのイメージを持つ人もいるが、実際は、読者や視聴者が関心を持つだろうことを優先する(=読者や視聴者に迎合する)。感染拡大の不安を煽るのも、五輪での日本人の活躍を報じるのも、その時々で変わる読者・視聴者目線のニュースバリューに従った振る舞いだ。

 「君子は豹変す」るそうだが、マスメディアも豹変する(マスメディア=君子だと言うのではない)。豹変はさておくとしても、「騒ぎすぎだ」「情緒的すぎる」「批判するか賛美するだけで、分析が欠如」など報道に対する批判はある。だが、理性的な報道に徹する新聞やテレビが存在したとしても、読者や視聴者の支持をどれだけ獲得できるか不明で、成功は見込み薄だろうことを考えると、人々に迎合するのが商業マスメディアだと理解するしかない。

 そうしたマスメディアは、例えば、感染拡大の危機を煽り立てて読者や視聴者の不安をかき立てるが、それは読者や視聴者が不安を感じてるから、それに迎合して危機を煽る。どちらが先かは定かならず、マスメディアは人々の興味や関心の動向を反映する鏡だとすれば、啓蒙的な役割をマスメディアに求めることは無理だろう。

 不安を煽ることでマスメディアは人々の注目を惹く。「日本の政治はうまくいっています」と報じるより、野党や評論家や外国メディアの日本政府批判を伝え、問題点を指摘してみせたほうがメディアの役割を果たしている風情になる。他者の批判を仲介して報じるから、当事者責任を回避しつつ、客観性を装って何でも批判できる。

 正確な情報を得て、脅威となる事象が起きる確率を知ることで危機を過大視せずに不安を抑えることができる。だが、マスメディアは確率を交えた情報提供をほとんど行わず、不安の存在だけを強調する。それは人々が浮き足立っていることの反映なのだろうが、不安を人々とマスメディアが交換しあって大きく育てているようでもある。

 「浜の真砂は尽きるとも 世に盗人の種は尽きまじ」とは石川五右衛門の辞世だそうだが、「世に不安の種は尽きまじ」と人々が常に何かの不安を感じ、「世に不安を煽るネタは尽きまじ」とマスメディアは、その時々の不安を煽る。不安を煽ることも、勝った勝ったと大騒ぎすることもマスメディアの商法だ。