望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり





自分さがし


 え~、捜し物てえのは厄介ですな。確かにここらにあったはずだと、すぐ見つかるものと捜してみると、これが見つからない。じゃあ、あそこかと捜してみても、ないンですな。そのうち出てくるだろうと諦めることになりますがね、時には意地になって捜すことを続けたりしまして。



 青い鳥てえ童話がありまして、捜しているものは身近にあったというサゲでしたがね。これは、捜しているものが何だったのかを知らないまま捜していた連中のお話と見ることもできますな。いくら捜したって、捜しているものが何かを知らないンじゃ見つかるわけがなく、まったく間の抜けた連中で。



 確かに幸せてえのは、よく判りませんな。ここにあるのか、手にしているのか、あいつは幸せなのか、こいつは幸せなのか……幸せの有り様は人さまざまなんでしょうがね、これという形がないのが厄介でして。幸せを捜すてえのは、自分の幸せの有り様を見いだすことのようで。



 捜しても、なかなか見つからないものに、自分なんてのも出てきましてね。自分を捜すてえと、おや、記憶喪失かい?と同情してあげたくなりますがね、そうとも限らない。立派な大人がふらふらと自分を捜してるのが珍しくないそうで。こちらもどうやら、捜してるものが何かを知らないままのようで、間が抜けてらあと冷やかしたくなりますがね、本人らはいたって真面目な様子だとか。



 自分捜しの出発点てえのは、自己否定なんでしょうな。現状の自分に満足できなかったり、曖昧な自己実現衝動に突き動かされたり、漠然とした理想の自分像に自己を仮託したり……理想の自分像が明確なら、あとは自分が努力すればいいだけでしょうに、あいにくと明確じゃないようで。



 漠然と自分捜しをするより、自己を受け入れて、不満な部分をどうにかすると考えるのが一般的なんでしょうがね、自己を受け入れるより、えいやっと自己を否定してしまい、どこかにある理想の自分を求めて旅立つ……おや、こんな身近にあったのかいと気づけばいいんですがね。



 ないものを捜したって見つかるはずがねえと一刀両断に片付ければ楽なんでしょうが、始まりが自己否定で、自我はしっかりあるてえンですから、収まりがつかねえ。目的地が不明のままドライブを始めたようなもんで、どこに行けばいいのか彷徨う。でも実は、ドライブすること=自分捜しの過程を楽しんでいるということもよくあることで。自我が自分だということに気づかねえふりをしてやがる。