望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

倫理観を先に立てる

 気候変動の危機なるものが共通認識とされる昨今、エコロジーに基づくとする人々の主張が、妙に倫理観を漂わせるのが気になっていた。未来予測は科学において確率で論じるべきものだが、決定したものとして未来を論じる人々が多すぎる。科学は全て真理で成り立っているとの誤解が未来予測を素直に信じることにつながっていると見える。

 エコロジーが倫理観と結びつくのは昔から珍しくなかったようだ。梅棹忠夫さんと鶴見俊輔さんの対談(「50年の幅で」1991年=晶文社刊『鶴見俊輔座談 民主主義とはなんだろうか』所収)で梅棹さんが指摘している。戦後を回想した対談の一部を紹介する(中略した箇所あり)。

鶴見 当時の京大マルクス主義系とは違う空気のなかで話のできる人だったな、あなたは。
梅棹 まったく違っていましたね。みなさん、どうしてあんなことになったのかなあ。50年代、60年代、マルキシズムを奉じる人がたくさんいた。どうしてそういうことが起こるのか理解できなかったし、どうしてそういう人たちが転んでゆくのかもわからない。マルキシズムは一種の新興宗教でしょう。そう思ったらわかるわけだ。ああ、これはやっぱり新興宗教の信者だなあと(笑)。近ごろのエコロジーがそれに近い。

鶴見 梅棹さんの陣営のほうに新興宗教的なものが入り込んできてしまった。
梅棹 そのときこちらはもうエコロジーをやめている(笑)。あれもマルキシズム社会主義の代替物ですね。社会主義エコロジーもひじょうに俗耳に入りやすい。だれにもよくわかるんです。いかにもほんとうみたいに聞こえる。だからみな、コロコロといかれてしまう、そういう現象だと思うんです。世界的にそうだと思います。

鶴見 まず倫理的なものを先に出しちゃうんじゃないかな。
梅棹 そうでしょう。倫理が先にあって、それがゆるぎのないものになって、それに全部あてはめてゆく。みんな道徳主義でゾルレン(当為=ねばならない)からはじまっている。
鶴見 客観的必然という考えをまずもとうとして、その必然とゾルレンがごっちゃになってしまう。科学的必然であり倫理的当為でもあるというかたち。「なすべきだ故になしあたう」という考え方。

梅棹 その科学的必然というのは、むしろあとからくっつけた理屈なんです。マルキシズムが日本知識人のなかで主流になったのは、まず道徳的な感覚があって、それを科学的に裏づけているらしく見えるので受容されたんだろうと思う。その道徳的なものも、日本に入ってくるのは江戸時代でしょう。江戸時代の侍の倫理観。
鶴見 侍の儒学
梅棹 日本に宗教としての儒教が入ってきたとは思わないけれど、理論としての儒学がかなりの影響をおよぼしたのは事実です。とくに行動における倫理規範としての陽明学の影響が大きい。これは明治以後もつづいています。そうした倫理主義の流れがあって、それがマルキシズムにつながるのではないですか。客観的認識が先にあるのとは違います。