望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり





沖縄という「正義」

 沖縄に移住する人が増えていると聞いたのは結構前だった。南国の沖縄は1年中過ごしやすく、地元の人々は人懐っこくて優しく親切で、いいところだと、沖縄にしばらく住んでいた人は皆言っていた。そうこうするうちに、文化人だのタレントだので沖縄に別荘を持つ人が珍しくなくなった。



 普天間の米軍飛行場移設問題では、沖縄がいかに「被害者」であるかを主張する声高な見解がマスコミにあふれた。沖縄にばかり米軍基地が押し付けられているとして、「琉球差別」なる言葉も持ち出されるようになった。



 被害者を自認する側が差別だと言い出せば、話は進まなくなる。差別性を否定しても、被害者を自認する側は納得せず、かといって「じゃあ、差別と認めましょう」と言ったところで、ますます話は進まなくなる。差別が持ち出されたところで感情論に大きく傾いてしまった。感情的になればなるほど、沖縄の人々は引くことができなくなる。



 沖縄は、先の戦争で日本で唯一、地上戦が行われた地であり、戦後はしばらく米の占領下に置かれ、日本復帰後も米軍基地はほとんど縮小されなかった。日本の平和主義者らが罪悪感を感じるには沖縄は格好の存在だった。同時に、沖縄への罪悪感が彼らの主張を正当化する支えともなる。だから皆で沖縄に盛大に同情してみせる。



 沖縄をけなしているわけではない。ただ、マスコミを始め、沖縄に盛大に同情してみせた本土の連中は、自分らの都合のいいように沖縄を利用したに過ぎない……つまり、政治の争点が次に移れば、沖縄は忘れられていくだけだ。一方で政治家連中は学習したに違いない、へたに沖縄に触ればヤケドすると。



 正義を振り回す連中ほど始末の悪いものはない。正義は絶対的なものであると考えられているようだ。だから、自分らが考える正義は同時に絶対的なものであると思い込みがちだ。しかしね、正義は人間が考え出したものであるため、個々の生育環境、素養、教養、利害などのほか、地域性、宗教性、党派性、時代性など様々な制約を受けている。



 沖縄の「正義」や沖縄の「心」なるものが言い立てられ、やがて独り歩きし始めた。実態はキャッチコピーの類いで、基地反対運動に便利に使われたのだが、同時に、「正義」「心」の言葉を腐食させた。抽象語である「正義」などの言葉は、現実に巻き込まれることにより、例えば、アルカイダの「正義」、アメリカの「正義」、タリバンの「正義」などという、相対的な主義主張にしか見られなくなる。



 沖縄に別荘を持つ文化人やタレントなどからの真摯な発言は、ほとんど見ることができなかった。日常的に住んでいるわけではないだろうし、そもそも基地の近くに別荘を持つはずもないしね。