望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

チャーリー・ワッツ

 チャーリー・ワッツがこの世から旅立った。1941年6月2日に生まれ、2021年8月24日に死去、享年80歳。1963年1月にローリング・ストーンズに加入し、約60年を現役ドラマーとして生きた。手元にある書籍や雑誌からチャーリー・ワッツの言葉を抜き出してみた。

 「初めてメンバーとしてプレイしたのは1963年、イーリング・クラブでだった。とはいえ、1962年にはミック、キース、ブライアンとすでに顔見知りだった。その頃、私はアレクシス・コーナーとシリル・デイヴィスのバンドの一員として、ウエスト・ロンドンにあるホットで汗臭くて狭苦しいクラブと、オックスフォード・ストリートにあるマーキー・クラブでプレイしていたのだ」
 「オルタモントはツアーの最終ステージだった。ヘリで到着し、外に出てみたら、手がつけられなくなった大観衆。ロック・フェスの始まりがウッド・ストックなら、終わらせたのは私たちだ。刺殺事件は見ていない。『ギミー・シェルター』の映像を見るまで気づかなかった。オルタモントで起きたことは、私たちの音楽のせいじゃない。私たちはまたしてもややこしい騒動に巻き込まれてしまったのだ」
 「リックス・ツアーのステージは、スティール・ホイールズのステージをさらに洗練させた感じで実に美しかった。よくミックのアパートメントでツアーの打ち合わせをしたものだ。ありがたいことに、私たちはテクノロジーを手にしている。だが観客とつなげるためには、常にテクノロジーと音楽を結びつけなくてはいけないんだ」
 「私たちは、自分たちが客席から見えないーー蟻みたいにしか見えないことを特に意識するようになった。実際、観客を盛り上げるために、ミックの姿をスクリーンに映し出さなければいけなくなったんだ。ショーの規模がこれだけ大きくなると、特別な助けが必要になってくる。花火やら、照明やら、舞台やら、ちょっとした『仕掛け』がね」
  ※以上は「ザ・ローリング・ストーンズ50」(2012年)から。

 「ある日ジェリー・マリガンの<Walking Shoes>を聴いて、ドラムのとりこになった(ドラマーはチコ・ハミルトン)。それ以来、サックスも他のどんな楽器も目に入らなくなってしまったんだ」
 「レコードを聴いた瞬間、『こんな風に叩きたい』と思った。今でもあの曲を聴くと、同じ思いが込み上げてくる。それほどの逸作だね」
 「セッションの仕事をしたことは一度もない。常にバンドがあった。一つ、または二つ。いや三つを掛け持ちしたこともあったな。ミュージシャンであるってことは、そういうことなんだよ。セッションからセッションを渡り歩こうが、同時に3バンドを掛け持ちしようが、様々な音楽的シチュエーションにおいてプレイできるのがミュージシャンだ」
 「バンドでプレイするってことに関しちゃ数だけはずいぶんとこなしてきた。どれも1〜2カ月単位だけどね。大抵リード・シンガーがメンバーのかみさんと駆け落ちしてずらかる。仕方なく僕は別のバンドに移る(笑)。さもなければ、バンドに人気が出てきて、わがまま放題になり消滅というお決まりのパターンさ」
 「この間もある奴に『まだ、やってるのか?』と尋ねられたので答えてやったよ。『ああ、まだやってるよ。カミさんが僕と別れずにいる唯一の理由もそれなんだ』とね」
 「今のペースのまま進めるのならローリング・ストーンズに終止符が打たれることはないだろう。このストーンズという何かは、大勢の人間に楽しみを与えるものらしいからね。キースもまだ夢中だ。残りの連中もだ」
 「楽しくなくちゃ。だって金はこれ以上欲しいとも思わない。一度100万ドル稼いでしまうと、それではまだ足りなくなる。5000万ドル稼いでもまだ足りない。金じゃないんだよ。気持ちの問題だ」
 「要は音楽なんだ。要は金だという人間も、そりゃ多くいるだろうが、ウサギとニンジンの関係さ。でもストーンズは金が動機だったってことは一度もない。このバンドはなんたってインスティテューションだからな(笑)。金は歯車の一つに過ぎないのさ。最後は上首尾に終わり、何かが僕たちの手元に残るんだろう。ま、せいぜい『何か』くらいは残って欲しいもんだね」
 ※以上は「ROCK JET」誌(Vol.55=2014年。1992年のインタビューの再録)から。