望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり





不正ばかり

 

 とある週末、のどかな昼下がりにチャイムの音。誰かが訪ねて来る予定はなかったので、新聞の勧誘か何かのセールスかと思って玄関のドアを小さく開けると、こざっぱりした身なりの中年の女性が1人、「まあ、ドアを開けていただいて、ありがとうございます」と意外そうな顔で言う。



 雰囲気から、こりゃ宗教関係だなと思いつつ、?という目で見ると、その中年女性は「今の世界は不正ばかりで、ウソと欺瞞に溢れています」と始めた。一生懸命に覚えたであろうトークの、せっかくの披露の場なんだろうが、うっかり聞き始めると長くなりそうなので、「そっちのほうは、関心ないですから」と断って、お引き取り願った。



 しばらく後でふと、あのトークはどんなふうに展開して行ったのかと気になった。「今の世界は不正ばかり」と切り出されれば、「いや、今の世界に不正は少ない」と異論を感じる人は少ないだろう。誰もが同意しやすいことから始め、相手が「そうね」などと言おうものなら大成功、同意をさせることを重ねつつ、その宗派の世界に引きずり込むのだろうな。



 「今の世界は不正ばかり」という世界観には、つい同意したくなるが、それが正しいとも間違っているとも決めつけることはできない。不正の定義は立場によって変化するものだろうし、世界が不正ばかりかどうかも、人によって見解が異なるだろう。さらにいえば、「今の」世界だけの問題なのか、人間世界はいつでも不正ばかりだったのか、それも人によって見解が分かれそうだ。



 「今の世界は不正ばかり」との言葉に納得しがちなのは、世の中の出来事を批判的に報じるマスコミの影響が大きいからだろう。日本でも外国でも、おかしなことばかりが次々に起きているように見える。でも、不正ばかりだと嘆いても、怒っても、世界が覚醒しますようにと祈っても、世界は変わらないので「不正ばかり」の状況も変わらない。



  世界が不正やウソや欺瞞に溢れているとするなら、それらを個別に見て、人間(個人)の問題なのか、政治・経済体制や法整備などシステムの不備・欠陥の問題なのかを見分けることが議論の前提になる。分析的に見ることをせず、大まかに世界をとらえて警世家を気取り憂い顔で嘆いてみせたって、何も変わらないし、熱心に祈ってみたって何も変わらない。



 何も変わらず、いつでも「世界は不正ばかりで、ウソと欺瞞に溢れて」いるから、いつまでも宗教の出番があるのかもしれない。もちろん宗教に熱心になったところで、世界から不正はなくならないし、自分の境遇が改善されるわけでもないのだが、いつまでも「今の世界は不正ばかり」と嘆き続けることはできる。つまり宗教は永遠だ(多分ね)。