望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり





「田園に死す」

 

 東京と“田舎”の行き来はかなり手軽になった。航空網が密になり、複数の新幹線が各方面に伸び、高速道も整備され、地方都市と東京を結ぶ高速バスも多い。格安の高速バスもあって、時間的にも金銭的にも東京と田舎の“距離感”は縮まった。東京は、週末に遊びに行く場所にもなり、一大決心をして上京するという感覚は希薄になりつつあるのかもしれない。



 50年ほど前は、「田舎を捨てて上京する」というストーリーが成り立った。現在のように、大量の細かな東京情報が氾濫していなかったこともあり、刺激が乏しい一方で、淀んで鬱陶しい田舎の生活からの解放が上京に託される気配もあった。上京しても、そこには別種の淀んで鬱陶しい生活があるのだが、それはまた別のストーリーだ。



 寺山修司監督作品「田園に死す」(1974年)を数十年ぶりに観た。これは、田舎も親も捨てて上京した男が、自身の上京譚を映像化するという作品。ただし、ノスタルジーで美化し、都合良く脚色した作品を最初は撮るのだが、途中で、本当は違っていたんだと方針変更、「事実」をさらけ出して撮る。



 例えば、田舎から一緒に東京へ逃げ出したはずの本家の嫁は、実は愛人と心中したのであるとか、男は母親を置いて本家の嫁と東京へ出てきたのではなく、母親と一緒に東京へ出てきて、ずっと一緒に暮らしているとか。観客には、どれが事実なのかは分からないが、それは、どうでもいいこと。男が記憶を再構築して映像化した表現を楽しめばいいだけ。



 ただ、この作品は、田舎から“脱出”して上京するという行為に特別な意味があるとしなければ、単なる映像詩となり、味わいも薄まってしまう。「解放地」の東京から逆に見ることで、田舎の風土、因習、人間関係などが、男の懐かしさなどの感情を含めて浮かび上がるという仕掛けだからだ。手軽に行き来できる場所ではない東京との対比でこそ、田舎の持つ土着性があらわになる。



 東京が、田舎からも手軽な行動範囲に収まった現在、以前の東京に託された特別なあこがれの地は今、どこにあるのだろうか。情報が氾濫し過ぎて、そんな特別な場所はもう消えたのか。もしかすると、情報発信の乏しい田舎のほうが今は特別な落ち着くことができる場所になったりして。東京に憧れた人々も定年だろうし。