望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり





“血”のリレー

 皇太子が結婚から20年を迎えた2013年に発表された感想で、夫人について「この9年余りの間、雅子にとっては、体調が思うに任せず、困難な道のりでもありました(中略)長い目で温かく見守っていただければありがたく思います」としている。雅子さんを巡っては雑誌などで様々な記事が出続けて、天皇制を巡る言論はずいぶん自由になったと思いたくなるが、出自が民間だからね。



 天皇(制)を巡る議論はどこまで“自由”なのだろうか。皇位継承を巡る議論も起きるなど言論の場では自由に天皇制が議論されているようだが、例えば、天皇が訪れる先で、天皇制を批判するプラカードなどを掲げると、即座に警察に排除されるなど過剰警備があるというから、天皇(家)に直接向かう言論には制約があるようだ。



 天皇制廃止を主張したとしても、言論だけにとどまり、天皇やそのファミリーを誹謗中傷するような表現がなければ容認されようが、うっかり右翼などの気に触るような表現が混じったりすると、問題化する。代表的なのは「風流夢譚」事件だが、皇室ポルノ小説に絡み雑誌「噂の真相」が右翼に攻撃されたことなど、天皇制に関する言説にはなお注意を要するようだ。



 だから、1952年(昭和27年)に刊行された大宅壮一著「実録・天皇記」(だいわ文庫)を読むと、敗戦から7年の当時は、天皇制に関する表現がこんなに自由だったのかという感想が最初に出てくる。いや、戦前の抑圧体制への反発で、天皇(制)に向けられる目が厳しかっただろう当時のほうが、自由な言論が保証されたこともあって、許容範囲が広かったのかも。



 本書は、“血”の問題を突破口に天皇制に取り組んだもの。大宅の言葉を借りると、その“血”は聖なるものとされ、その“血”の担い手なるが故に天皇は神聖視され、神秘化される。そして、その“血”は日本を支配する権力と結びついている。大宅は、“血”の担い手の天皇は、絶対に消してはならぬということで、五輪の聖火を運ぶランナーと似ているとする。



 こうした“血”と権力の結びつきは日本の天皇の場合に限られたことではなく、子孫を通じて自己とその権力を永続化しようと“血”のリレーが始まる。天皇制が特異なのは神話からつながっていることだが、大宅は、日本人が二十代、三十代と系図を遡って行けば、たいていどこかで必ず皇室にぶつかるに違いないともいう。ただ、そんなに長い系図を誰もが保持しているわけではない。



 確かな出所がある資料に基づいて書かれたという本書だが、「肩のこらぬ読み物」に仕上がっている。柔軟に天皇(制)を考えるために役立ちそうだ。ちなみに、各章のタイトルは「危なかった“血”のリレー」「天皇製造“局”の女子従業員」「天皇に寄生する男子従業員」「天皇株を買う人々」「“予想屋”としての勤皇学者」「間引かれた御子様」「膨大な“血”の予備軍」「天皇コンツェルン完勝す」などといった具合。アブナそー気配が漂う?