望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

無責任になる時


 以前に聞いた話だが、人が金を使う時に、最も慎重になるのは「自分の金を他人のために使う時だ」という。何らかの見返り(相手からの好意、感謝など無形のものも含む)を期待し、それが、自分の使う金に相応するものかを推し量るが、実際の見返りが予想通りになるかどうかは分からないからだ。



 最も無責任になるのは「他人の金を他人のために使う時」だという。どんなに浪費しようと、自分の懐には影響しない。むしろ、他人の金を大盤振る舞いすると、その恩恵を受けた人から自分が感謝されたりするのだから、「他人の金」を気前よく使うことは心持ちが良さそうだ。政治家や官僚が国の金を、莫大な借金を積み上げながら、大盤振る舞いするのは、「他人の金」だと思っているからかな。



 ここで「金」を「ニュース」に置き換えると、新聞社やテレビ局などが最も慎重に報じるのは「自分に関するニュースを他人に伝える時」だとなる。確かに、報道各社は自社の不祥事などについて、どこかに暴かれるまで伝えなかったり、伝える時も目立たない小さな扱いで済ますことは珍しくない。



 さらには、他社からの取材にもろくに応じず、会見を開くことにも積極的ではなかったりする。他人や他社の不祥事なら、取材陣が追いかけ回し、「説明責任があるだろう」などと強く迫ったり、関係者に取材して回るのにね。中にはNHKのように、女子トイレの中にまで取材対象者を追いかけて行く……ところもある。



 自分らに関することなら、慎重に取材し、報じるとしても慎重に報じるのに、他人や他社の不祥事なら容赦なく暴き立て、時には「社会的責任を明らかにしろ」などと糾弾する調子になる。これは、「他人に関するニュースを他人に伝える時」に最も無責任になる……ことか。



 でも「他人に関するニュースを他人に伝える」のは日常的な報道であり、大量に流される。それらのニュースを報道各社がいつも無責任に伝えているのではないと信じたいが、むやみに「大騒ぎ」することはよくあり、取材対象となった人や会社などに、自社が対象となった時と同じように十分に配慮していると見えないことも確かだ。



 民主的で「開かれた」社会を維持するために、世にある不祥事を報道各社が暴き、追及することは欠かせないが、「他人に関するニュースを他人に伝える時」に、新聞社などは無責任になっていることがあると疑問を感じることは結構ある。朝日新聞社では、32年も経ってからの「記事取り消し」があったが、これなど無責任の極みかもしれない。