望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

事実を事実として報じる

 「今日は晴れている」「今日は雨だ」などと天気のことを言う時には、「晴れていて良かった」「晴れていて気持ちがいい」「嫌だな。雨だ」などの気持ちを含めていることがある。感情というフィルターを通して、天気という自然現象を見ているわけだ。気象関係者なら、感情を交えずに客観的な事実認識として「今日は雨だ」などと言うのだろうが。



 ある政治家(X氏とする)のスピーチを報じた記事が、新聞により“色合い”が異なることは珍しくない。X氏と政治的立場が近い新聞は好意的に伝え、X氏に批判的な新聞はスピーチの問題になりそうな個所を強調して伝えたりする。どちらが“正しく”伝えているのか。スピーチ全文を読めば読者自身が判断できるのだろうが、「全文を読め」と読者に求めるのなら、記者が書く記事は不必要だ。



 事実認識に善悪などの価値判断を紛れ込ませずに、ありのままの事実のみを伝える報道機関があったなら信頼できるのだが、現実には存在しない。世界はニュースに溢れるが、その取捨選択の段階から報道する側の価値判断が入る。そうした価値判断を排除しようとすると、例えば、全てが1段見出しのベタ記事で埋まった新聞にならざるを得まい。読むのは大変そうだ。



 事実認識に価値判断や感情を交えるナといっても現実に不可能なのは、報じる側も読む側も人間なので、感情の動きを封じることができないから。だから、経済記事なら数字の羅列だけでも済むだろうが、災害や戦争などで傷ついたり死んだりした人を報じる記事から、被災者への同情や励まし、戦争への怒りなどが伝わってこないなら、読者はついて来ないだろう。



 感情に動かされるのが人間だからこそ、事実は事実として報じることに意識的になる必要がある。事実認識を間違えて報じていたことに気付いたならば、早急に「訂正」する責任が報じる側にはある。また、過去に報じた「事実」に、その報道機関の価値判断などによって“演出”が施されていたならば、それは報道ではなく、小説などと同類の創造的な表現である。その場合には、読者に明確に、報じる側の価値判断が入っていたと伝える責任がある。



 事実を事実としてだけ伝える報道機関は現実には存在せず、それぞれに“カラー”があり、それぞれのフィルターを通して見たニュースを伝える。報道機関とカラーを共有する読者なら、そうして提供されたニュースに共感するだろうし、演出が加味されていることを意識しないだろう。「類は友を呼ぶ」構造で各報道機関は支えられている。



 過去の報道に事実関係の誤りがあり、さらに、その誤りを正すことが報じる側の「正義(社論)」に関わって来るならば報道機関は窮地に陥る。事実関係の誤りは訂正しなければならないが「正義(社論)」を変えることはできない……だから、事実関係の誤りに気付かないふりを続けていたというならば、そんな報道機関は信用されなくなる。