望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

新たな革命思想は

 世界では各国で格差が拡大しているという。富む者はますます富み、中間層は薄くなり、貧しい者は貧しいままで捨て置かれる。個人の努力や能力に差があるのだから、得られる富にも差が出て来るのは当然だとする考えも有力だが、日々の糧を満足に得ることができない人々がいることを個人の責任にだけ帰してしまうと、見捨てておくことを正当化する。

 社会は富者によってのみ構成されているわけではない。人間の権利は富者でも貧者でも平等なのだから、誰にもその社会で“人間らしく”生きる権利がある。個人の努力や能力によって収入に差があったとしても、貧者だからと社会から見捨てられていいはずはない。だが現実には見捨てられる。社会保障などの“コスト”は、富裕層にとっては過大で過剰に見え、「削減すべき」と攻撃の対象にされたりする。

 見捨てられることを甘受する貧者は忘れられるだけ。貧者がその社会で“人間らしく”扱われることを欲するのならば、立ち上がって主張するしかない。そうした問題提起を社会が受け止めるなら、その社会で容認される格差はどこまでか、正当化されない格差はどこからか等の合意形成が次の課題になる。ただし、その“線引き”は富者と貧者の力関係で常に変わる。

 資産課税の強化などで財産が“削られる”ことを甘受する富者はいないだろうが、格差が拡大するにつれて貧者が増える。民意が正確に政治に反映するなら、格差の是正へと動かざるを得ないのだろうが、往々にして政治では富者の意向が尊重される。格差の拡大を容認してきた政治に、格差の是正を期待することは望み薄かもしれない。

 大雑把にいえば共産主義では富者を資本家、貧者を労働者として、貧者が富者に搾取されているとして、貧者(労働者)の暴力による経済体制の変革を正当化した。だが、そうして実現した20世紀の共産主義国家が「失敗」に終わり、共産主義の思想は影響力を失ったので、現在の拡大する格差を是正する思想にはなり得ない。

 現在の格差の拡大に対して、暴力はともかく、社会的な強制力を持って是正しようとする時に、それに正当性を与える思想はあるのか。“人間らしく”暮らしたいという生存権の主張は有力で、情緒に訴える力も強いだろうが、富者の「強欲」を突き崩すほどの力はないだろう。貧者に経済要因以外の共通する属性は乏しいだろうから、貧者を労働者階級と一括りにすることもできまい。

 ますます富む富者を見て、怒りをおぼえる貧者もいるだろう。その怒りを広く社会で共有し、強制力で格差を是正することを正当化する思想が現れれば、世界に大きな影響を与えそうだ。それは、21世紀の新たな革命思想になるのだろうが、まだ世界のどこにも現れてはいないようだ。