望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

みんなが共犯者

 日本は同調圧力が強い社会だとよく言われる。そうした指摘に対して「そんなことはない」などの反論を聞くことは少なく、積極的に同意されたり、穏やかに受け入れられたりする。そんな聞き手の様子が、同調圧力が強いことを示しているように見受けられるのは皮肉な光景だ。

 同調には4種類ある。1)相手と同じ考えなので同調する、2)相手に迎合するために同調する、3)どうでもいいことなので、反論をしたり異論を唱えることを控えて消極的に同調する、4)何も考えていないので同調する。いずれにも、同調することには自分の利益が確保されたり、不利益をこうむらないことが絡んでいたりする。

 同調せよと圧力が加わるのは、利害が絡んだり、上下関係などの序列が絡んだり、秘密の共有が必要であったりする場合だろう。何らかの強制力が伴うので、同調しない場合には、それなりの覚悟を要したりする。だが、一般に言う同調圧力はもっと気軽なもので、強制力は伴わず、周囲とうまくやれといった程度のものだったりする。

 気軽なものであっても同調を求める圧力が日本では高いとされるのは、同調することに少しの違和感を感じつつ、それでも同調している人が多いからかもしれない。自分の意思を通すほどの重要な問題ではないとして消極的に同調しつつ、その同調したことに納得をしていないのだ。

 納得できないことを強いられたと見るから、同調させられたと圧力に感じる。納得できないのに同調した自分を責めるよりも、社会の同調圧力が強いからと批判するほうが自分を慰めやすく、そうした社会に問題があるとごまかしやすい。でも、納得できていない自分がいる限り、社会を批判しても何も変わらない。

 納得できないのに同調するのは、周囲に妥協して生きているという感覚につながる。しかし、妥協を強いられたといっても実は、当人が妥協を選択したのである。強制力を伴う同調圧力なら自分の利害を考えて判断したことを意識しやすいが、気軽な選択事項で「まあ、いいか」と妥協した場合には、判断の主体が曖昧になりやすい。

 同調圧力が高い社会だというと、ずいぶんと周囲に気を使って暮らさなければならないような、息苦しい社会のイメージにつながる。だが、同調圧力が高い社会が、すぐに周囲に妥協して生きる人が多い社会であるということなら、皆が「共犯者」だということになる。同調圧力が高いからと社会のせいにしている限りは、すぐに妥協する個人は違和感を抱え込み続ける。