望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

名は体を表さず

 政党名は何を表しているのだろうか。より良い社会に近づけるために活動する人達を政治家とするなら、彼らが共有する理念を簡潔に表す言葉を冠して政党名にする……はず。新しく政党を結成する時には、それぞれが持つ理念を話し合って詰めていけば、共有する理念が自ずと浮かび上がって、それで政党名は決まる。共有する理念があるのなら、政党名の選択は限られよう。

 しかし、数合わせで新しく政党を結成する場合には、いろいろな考えの人が集まるので、共有する理念が浮かび上がるどころか、反対に話し合うほど曖昧になろう。そんな場合には、選挙対策を優先し、主権者にウケそうな名称をでっち上げたりする。理念は関係なく、次の選挙で目立てばいいと政党名を考える。新鮮さが重視されたりし、“輝き”が薄れれば別の政党名にチェンジして……使い捨ての感覚だな。

 共有する理念を政党名にしたならば、簡単には変えることはできなくなる。理念をコロコロ変える政治家なんて信用されず、そんな政治家が集まった政党も信用されないからだ。つまり、政党名をコロコロ変える政治家連中は、自らの理念をコロコロ変えておりますと自白しているようなものだ。

 その点では自由民主党はずっと名称を変えていないから、結党の理念を変えていないことになる。だが、自由民主党が結党以来、自由や民主を尊重した政策を行ってきたかというと、いささか疑問がある。だから日本の政治家は、政党名なんて理念や政党の実態とは関係なく、立派そうでウケのいい名称を掲げておけばいいと考えるのかもしれない。

 自由とは個人の有する権利であり、民主とは個人の自由意思を基礎とする政治形態のことだ。しかし、自由民主党が掲げる自由、民主とは個人のそれではない。自由民主党が掲げる自由、民主とは、権力を持つ集団・人の自由であり民主のことなのだ。それなら、自由民主党が結党以来、共有する理念を変えていないことが理解できよう。

 この自由民主党という名称のため、理念を持たない政治家でも新党を結成する時に、立派な理念を政党名に掲げることに抵抗が薄れる一方、主権者に対するマーケティング効果が高いであろう言葉なら何でも政党名に掲げることにもなった。理念など希薄な政治家には、そんな思いつきの政党名がふさわしいのかもしれないが。

 理念に関係がない政党名ならコロコロ変えることができる。客足の落ちたキャバクラが、1週間ほど休んだ後に店名を変えて新店として開業したり、売れ行きが落ちた商品の名前と包装を変えて新商品として売り出したりすることと同類と見なすなら、理念が希薄な政党や政治家は、使い捨てればいいだけのものでしかない。