望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

価値観の共有

 普遍的な価値観とは、国家や民族、宗教などを超えて人類が共有する価値観のこととされる。とはいえ、普遍的な価値観を決定する明確な基準はなく、共有する国家が多い価値観が普遍的とされる。現在では、近代になって世界的に大きな影響力を持った欧米的価値観が普遍的とされることが多く、それは欧米が国際的な影響力を保持することに役立っている。

 欧米的価値観は例えば、個人の自由や権利の尊重、主権在民の民主主義、人道主義などだが、それらより体制の維持を優先させる強権国家は世界に珍しくはない。普遍的な価値観には殺人や窃盗などの禁止もあるが、社会によって禁止の実態は様々だ(名誉とか報復のための殺人が根絶されない社会もある)。

 つまり、普遍的価値感といっても絶対的な規範ではない(欧米は絶対的なものと主張するが、その欧米は相手によって、それらの主張を使い分けるのが現実)。だが、普遍的な価値観が存在しない世界は、帝国主義的な力の論理で争う時代に逆戻りする。そんな世界よりも、対話を重視する世界を望むなら、対話の基盤となる共通する理念があったほうが便利だろうから、普遍的な価値観を設定する意味はあるだろう。

 さて、普遍的な価値観とは横(地理的)に広がって共有されるものとすると、縦(時間的・歴史的)に広がって共有される価値観もある。それは民族や地域社会の伝統などに代表され、地理的な広がりには乏しい。こちらにも明確な基準はなく、従う人が従うだけ。伝統だからと広く強制を仕組んだりすると、途端に異議が出てくることになる。

 伝統なんて蹴飛ばす対象だとするのは若さの特権かもしれないが、成熟というか老齢化が進む社会では伝統はそれなりに尊重される。といっても、ひと昔前の価値観に基づいて構築された伝統は歴史の検証にさらされ、時代の変化に合致する部分だけが受け入れられるか、さもなければ、歴史の遺物として祭り上げられるだけだ。

 伝統のほかにも時代を超えた価値があるとする人もいる。例えば、「夫婦相和し朋友相信じ」などは100年前にも現在にも通用する価値観だとし、ついでに100年以上前の古びた書き物を引っ張り出してきて、うやうやしく奉る姿を演じたりする。ところが、金が絡むと途端に「朋友」が仲間割れを始め、相信じていない姿が露見して笑われる。

 「夫婦相和し朋友相信じ」などというのは、あるべき望ましい姿のことであり、理念ではなく、歴史の検証にもさらされていない。これぞ受け継ぐべき価値観だと、100年以上前の書き物を引っ張り出して主張する人たちから見えてくるのは、知的な衰退である。歴史の検証に耐え、国境を越えて共有されるような論理の構築ができないでいる姿を晒すことになった。