望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

中国ではない中国

 アヘン戦争で英国軍は香港島を占領し、英国は香港島を英国領だと宣言、1842年の南京条約で清は英国に香港島を割譲することを承認した。英国はさらに香港島の対岸の九龍半島を永久租借し、新界地域を99年租借する条約を結んだ。香港は英国をはじめ西欧列強の対中国貿易などの拠点になり、中国大陸から逃れてくる人々の受け皿ともなって発展した。

 「中国ではない中国」として香港の歴史は刻まれた。中国大陸の端に位置する香港は、英国が香港の支配を続けることを断念して中国に返還して以来、共産中国とは異なる中国=自由な中国として位置付けられた。共産党による独裁支配の範囲外にあり、民主や自由、人権など普遍的とされる価値観の中国人による主張の場として香港のポジションが決められたように見えた。

 だが、民主や自由などの中国人による主張の拠点と香港がなることを共産中国は容認しなかった。「中国ではない中国」としての香港を終わらせることを共産中国は決断した。経済的に欧米には中国を「罰する」力はもうないと見たのだろうし、政治的にも欧米に中国を国際政治から除外する力はもうないと中国は見切ったのだろう。

 約100年に及ぶ英国の支配の中で香港は、民主や自由などとは無縁だった。英国などによる収奪が優先され、植民地の人々に対する配慮は希薄で、厳しい植民地支配というよりも放置されていたというのが実情だろう。中国への返還が迫ってから英国は香港で人々の政治参加を拡大したが、香港の人々に自己決定権を与えたわけではなかった。植民地を放棄する時には、後の紛争のタネを埋め込むという英国のやり方だ。

 「中国ではない中国」香港は、香港国家安全維持法によって共産中国の一部としての香港になった。その位置づけはおそらくウイグルチベットなどと同列に置かれているだろう。共産党の独裁支配に抗う人々・地域として、厳しい監視体制の下に過酷な統制が行われる。金融をはじめ経済に関する統制も強化された時、香港の利用価値はなくなったと欧米などは判断する。

 「中国ではない中国」の香港で人々が民主や自由などの主張を公然と行う光景は、中国人に対する欧米など世界からの期待をつなぎ止める役割もあった。期待とは、経済発展が進むにつれて中国人は民主や自由などを求めるようになるとの筋書きであり、それが共産中国を世界経済に招き入れる口実ともなった。香港が共産中国に「回収」されたことは、中国人も普遍的価値に同調するという欧米の甘い目論見が外れ、世界における価値観の対立が鋭くなることを意味する。

 英国の植民地から中国の植民地になった香港。民主や自由などと無縁であることは共通するが、人々は放置されることはなく、厳しく監視される。共産主義が人々を解放する思想だと信じられた時代があったが、現実には権力が人々から自由を奪い、人々をきつく束縛する思想であることを香港の中国化は教えている。同時に、民主や自由を主張する人々を欧米などが、やがて見捨てるだろうことも予感させる。それは植民地の人々に対する欧米の態度だった。