「表現の自由」というと、専制的な権力と闘って人々が勝ち取った権利であり、民主的な社会の構成要件でもあるので、無条件に尊重され維持されるべきものとされる。ただ、「表現の自由」は文化財のように保護されるべき遺産ではなく、人々が様々な自由な表現を果断に行うことの積み重ねで“生き続ける”。
「表現の自由」とは、理性的で知的で客観的な表現だけが自由だということではない。くだらない内容であっても、下劣なものでも、攻撃的なものでも、党派的なものでも何でも自由に表現していいい。くだらないことを考え、下劣な振る舞いをし、攻撃的になったり、党派のために動いたりするのが人間だから、人間が行う表現はそうしたものになる。
ところで、表現するものが特にないという人にとって、表現の自由とは何だろうか。自分の考えを持たない人はいないだろうが、創作意欲のようなものを持たない人はいるだろうし、社会動向に無関心な人は社会に向けて表現する気はないだろう。自由に表現したいという動機も意欲もなく、表現する内容も持たない人にとって、表現の自由の“ありがたみ”は少ないかもしれない。
ただし、表現するものが特にないけれど、表現したいという意欲が強い人は珍しくない。オリジナルの発想や独自の考察などにより築かれた表現は持ち合わせていないけれど、表現したいという意欲が強い人は、何を表現するか。それは、どこかから出来合いの発想や表現を無自覚に拝借して自分のものとして装う表現になる。それも表現の自由の一つではある。
表現とは、創作者の個性的で独自の表現のことだとつい思いがちだが、世に溢れている表現の大半は、どこかで見聞きした、ありきたりの表現だろう。それらは、その社会の常識や通念など「一般」や「普遍」とされるものに基づいていることも多い。そのことが表現に「正当性」を与えていると見なされたりもする。
既成の権力や既成の権威に疑いを持たない人々が多い社会や、支配的な価値観に沿って生きる人々が多い社会で、既成の価値観に反しても個性を強いて表現しようとの意欲を持った人は、社会との摩擦を避けることができないだろう。そうした表現は、個人の表現などより優先されるものがある社会で「正当性」に反するものとされ、批判され、排除の対象になったりもする。
「正当性」は社会により異なり、「表現の自由」も社会により異なる。歴史を経て形成されたそれぞれの「正当性」を持つ様々の社会が共有できる「表現の自由」は何か、どの部分か。高々と「表現の自由」を振りかざす欧米社会の価値観が「普遍的」であるとは限らないが、表現意欲を持つ個人に対する抑圧が比較的少ないとはいえる。