望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

100年前は1920年

 第1回の国勢調査が行われたのは100年前の1920年。人口は5596万3053人と現在の半分以下で、15歳未満が36.5%、15〜64歳58.3%、65歳以上5.3%と「若い」社会だったが、平均寿命も男42.06歳、女43.20歳と現在のほぼ半分。世帯数は1112万世帯だが、世帯の平均人数は約5人と現在のほぼ倍だった。

 5596万人というのは内地人口で、外地人口は2102万人だった(当時は台湾や朝鮮、樺太の南半分、千島列島なども日本の領土)。内地では54.9%が第1次産業に従事していたが、現在は5%を切っている。現代では第3次産業の就業者が人口の7割以上になるが、当時は24.2%とこの100年で日本の社会は大きく変貌した。

 当時は革命の「祖国」ソ連の国際的な影響力が強く、各国で労働者や社会主義者らによる活動があったが、警戒感が高まり米国ではパーマー司法長官による「赤狩り」で全米70都市で1万人が逮捕され、移民など数千人が国外追放になった。さらに、マサチューセッツ州で起きた武装強盗殺人事件の容疑者として伊移民の製靴工サッコと魚行商人バンゼッテイが逮捕された(1927年に処刑。1977年に無罪認定)。

 米国ではこの年、議会が婦人参政権を承認した一方、KKKが南部で勢力を伸ばし、加州で排日土地法が施行されるなど、白人以外を排他する動きが顕在化した。白人を中心とする国家観と多民族国家とする国家観の衝突は現在の米国にも引き継がれている。

 第一次大戦の反省から国際連盟が設立されたのも、この年。戦争を防ぎ、平和を維持することが目的だったが、米国は上院が加盟を否決したため参加せず、機能を十分に発揮できなかったと現在ではみなされている。発足時の常任理事国は日本、イギリス、フランス、イタリアの4カ国(後に加盟したドイツとソ連が加わった)。

 日本ではこの年、3月に株価暴落で東京・大阪の株式取引所が休業するなど、第一次世界大戦後の過剰生産による戦後恐慌が始まり、4月に株価再暴落で全国の株式取引所が1カ月休業し、銀行に取り付け・休業・合併が相次ぎ、取り付けで支払停止する地方銀行が続出した。

 早稲田と慶応が初の私立大学として設立が認可されたこの年、他の私大の設立も続いて認可された。電話の需要が急増し、童謡のレコードが売れ、安来節や八木節がはやった。賀川豊彦の「死線を越えて」が100万部を越すベストセラーとなり、上野公園では1万余人が参加し、日本初のメーデーが挙行された。