望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

印象操作を見破る

 テレビやインターネット、雑誌、新聞などには広告が溢れている。人々の視線をとらえようと様々な手法を駆使して気を引き、商品などの認知度を上げ、さらには企業などの好感度を高めようと努めている。だが、広告が一方的な印象操作であることを人々は知っているので、うっかりと、全ての広告が主張することを真実だと受け止める人は少ないだろう。

 広告の印象操作に人々が簡単には引っかからないのは、それが印象操作だと知っているからだ。それでも、つい広告につられて購入し、食べたり使ってみたりして「な〜んだ、この程度か」と肩透かしを食らった経験は誰にもあろう。広告の印象操作によって期待を高められているだけに、実際とのギャップが逆に印象に残ったりする。

 印象操作は個人も行う。程度の差はあれ誰でも自分を良く見せようと言葉に気をつけ、視線を意識して行動する。人々は、好意を持っている相手の印象操作は許容し、受け入れるが、そうでもない相手の印象操作には気づきやすい。おそらく、見た目などから自分が得た印象を、相手が行う印象操作よりも優先させるためだろう。

 政治家や政党は世間に向けて常に印象操作を多用するが、そうした印象操作を人々はどれほど意識しているだろうか。おそらく、共感したり親しみを感じる政治家や政党の印象操作は大目に見るが、共感しない政治家や政党の印象操作は敏感に嗅ぎ分け、無視するか反発するだろう。

 印象操作だと気がつけば、騙されないように用心できるから、印象操作の害があるとすれば、共感したり親しみを感じる政治家や政党の行う印象操作を大目に見ていることを続けるうちに、印象操作だと感じなくなることか。共感が先に立って、印象操作されているとの意識が希薄になり、ついには印象操作の同調者になったりもする。

 政治家や政党が行う印象操作に加担するのは支持の表れでもあろうが、気づかずに印象操作に加担するのは騙されている状態だ。何でも疑ってかかるのが印象操作を見破る効果的な対処法だろうが、共感したり親しみを感じる政治家や政党が発する言葉を疑ってかかるには、意識的に接する必要がある。つまり、よほど理性的でなければ困難だから、共感したり親しみを感じる政治家や政党の発する印象操作は受け入れられる。

 印象操作を見破る簡単な方法は、誰の言葉に対しても、まず「違うだろう」と否定し、それから「なぜ違うのか」を考える。そこで、「違う」と納得できなければ、共感したり支持すればいい。共感したり親しみを感じる政治家や政党が発する言葉に対して、意識して批判的に検証する……それは、得票の多寡だけを争う民主主義から脱するために必要なことだろう。