望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

新しい世界を広げる

 2年前に60歳になった知人がいる。親戚を集めて盛大に還暦祝いをしたいとの家族の提案を知人は拒否し、少し高級なレストランに出かけて家族だけで誕生日を祝うにとどめたそうだ。「還暦なんて言われると急に年寄りになったみたいで嫌だったし、照れくさくもあった」と知人。

 還暦とは、生まれた年の干支と同じ干支になる数え年61歳のことで、めでたいとされる。生まれた年の干支は本卦といい、還暦は本卦帰りともいわれる。干支は、五行を陰陽に分けた十干と十二支の組み合わせなので60通りあり、61年目に生まれた年と同じになることから、生まれ直すという意味もあるそうだ。

 60歳を前に早期退職制度を使って会社勤めをやめた知人は、何かをしようとは思うものの具体的には思いつかないからと、たまに仕事を頼まれれば出かけるが、ほとんど引退状態だ。傍目には悠々自適の生活を楽しんでいるように見えるが、知人は「のんびりしすぎると、感性が鈍ってしまいそうだ」と焦る気持ちがあるという。

 出かけることが減って知人は、人との新しい出会いがなくなり、対応しなければならない出来事に巻き込まれることもなくなり、世の中との接点がテレビや新聞だけになって、世の中から置き去りになっていくような気がしたという。「これでは自分の世界が狭くなっていく」との予感にとらわれて知人は考えた。

 行動範囲が狭くなり、刺激を受けることも減って、それまでの人生で築いた知見や考えに固執する頑迷な老人になっていくことを恐れた知人は、「還暦とは、生まれ直すということか」と知り、「世界が狭くなり、縮んでいくような生き方は嫌だ。新しい体験をして、新しい世界を知り、自分の世界を広げる」と決めた。

 初めに、18キップを使っての各駅停車の旅に出てみた。仕事をしていた頃に乗ったのは新幹線や特急ばかりで、地方の各駅停車に乗るのは子供が小さかった頃の家族旅行以来だった。のんびり旅を楽しみ、地元の人との触れ合いにも期待した知人だが、車内にはリタイア組の乗りテツらしき人々が多く、乗換駅などで窓側の席に座ろうと争う景色もあって幻滅を感じたという。

 各駅列車の旅に特に惹かれるものを感じなかったという知人は、次に妻に連れられて歌舞伎を観に初めて行ってみたが、じっと座っているのは俺に向いていないと痛感したそうだ。気にいる新しい世界になかなか出合えない知人だが、地方の祭や食が目当ての旅なら楽しそうだと情報を集めているそうだ。さらに、新しい世界を体験したいなら競馬場や競輪場に連れて行ってやると友人に誘われているとか。