望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

電車にもクーラーがなかった

 クーラーが普及していなかった頃、東京の真夏の通勤電車の車内は悲惨だった。時差通勤や在宅勤務などがほぼ皆無の当時、路線によっては定員の3倍以上の混みようで身動きもままならず、窓を全開にしても風を受けることができる人は少なかった(人がぎっしり詰め込まれているので風の通る空間がない)。

 家から駅に着いた時に既に汗をかいていた大半の乗客は、混雑した車内で汗だくになる。汗まみれの他の客と体を接触させたくないと誰もが思うが、満員の通勤電車の中では、自分だけの快適スペースを確保することは不可能。乗客の不快指数は朝から急上昇する。

 修行を重ねて無念無想の境地に達すれば、「心頭滅却すれば火もまた涼し」と感じるようになるとされる。感じ方(受け止め方)を変えることで外部要因に精神状態を左右されなくなるとの主張だ。そうした境地の人は今年のような猛暑にも何も感じないのか、猛暑を無視するだけなのか定かではない。

 そうした境地の人が真夏の冷房がない満員電車に乗ったとしたなら、やはり「心頭滅却すれば火もまた涼し」と感じるのだろうか。真夏の冷房がない満員電車に毎日乗ることを過酷な修行体験とみなしても、そうした境地には達するのは簡単ではなさそうだ。精神論を試すには、猛暑はいい機会か。
 
 通勤電車へのクーラー設置は1970年代に始まり、1980年代になって当時の国鉄の冷房化率は80%を超えたという。東京の地下鉄ではクーラー設置が遅れ、1990年代になってから全車両の冷房化が実現した。冷房がない地下鉄車両では窓を全開にするので、騒音が凄まじかった。

 冷房車両が普及した現在だが、クーラーがない車両は、北海道など北国を走る各駅停車など全国にまだ残っている。そうした車両の天井には扇風機が取り付けられていて、近くの壁にスイッチがあって乗客が押して作動させる。

 猛暑の中、乗客が少ないローカル線でボックス席を独占して足を投げ出し、窓を全開にして生ぬるい風を受けながら、流れ去る風景を見ているというのは、例えばJR只見線などでの真夏の楽しみだった。猛暑を受け入れて楽しむという境地こそ上等な夏の過ごし方だ。