望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

不自由な表現

 表現とは不自由なものである。例えば、性器や性交をリアルに描く絵画や彫刻などの公開には、ほとんどの社会で何らかの制約を課されるだろうし、政治的な主張も政権(国)によっては厳しく制約を課すだろうし、宗教的な規範が厳しく日常生活を律している社会なら宗教的規範に反する表現は許されないだろう。

 さらに、明示されていなくても社会によって、自粛すべき表現というものがある。自由が尊重されている社会でも、世論の大勢に抗する表現には批判が集中したりして圧力が加わる。例えば、現在の欧米では環境保護派の影響力が強いので地球温暖化論を嘲笑う表現は批判され、LGBTの権利主張を揶揄する表現などには、「表現は自由だが、それを批判することも自由だ」と圧力が高まろう。

 とはいえ、自由な表現はどこにでもあるのも現実だ。権力に寄り添い、社会や宗教の規範から逸脱せず、社会の通念や倫理、世論などに従順な表現なら自由があるだろう。また、制約の中で発想していることに無意識な人は、制約が多い社会であっても、自由な表現が可能な社会だと思うだろう。

 表現の自由が制約されている社会、例えば中国でも、自由な表現は不可能ではなく、決意すれば何でも自由に表現できよう。ただし、自由な表現を遂行した人には様々な圧力が待ち受けているだろうし、時には社会から隔離されるかもしれない。そうした自由な表現は、自由を求める自由の象徴的な試みである。

 表現の自由が問題となるのは、社会との関わりにおいてである。どんな絵画や彫刻を創り、どんな文章を書こうと、それが個人の家の中に置かれ、外に出ていかない限り、表現は自由だ。自由な表現を社会の中に持ち出し、時には価値観などが異なる社会に持ち出すから、自由な表現が摩擦を起こす。自由は絶対的なものであることが望ましいだろうが、絶対的な自由の範囲は小さいのが現実世界だ。

 自由は表現だけにあるのではない。作品を鑑賞する態度も個人の自由であり、作品の価値をどう判断しようと個人の勝手なのだが、社会によっては、表現の自由も鑑賞の自由も許されない。例えば、北朝鮮にある金日成金正日銅像。国家ぐるみの個人崇拝の象徴であり、作者の創作意欲だけで自由に彼らの銅像を制作することは許されず、敬意を表さない態度で銅像を見ることも許されまい。

 プロパガンダを目的に少女像を創ることは自由で、そのプロパガンダを広めるために少女像を展示することも自由、プロパガンダ表現の自由で隠蔽することも自由だ。だが、北朝鮮にある金日成金正日銅像と同類で、アートとしては価値が劣る凡庸な表現の作品を表現の自由で擁護することは、自由を求める行為ではなく、自由の価値を汚す行為だ。プロパガンダ目的の表現の自由には、自由の方向を制限する特有の不自由さがつきまとう。