望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

公人としての覚悟

 例えば、米国では黒人に対する差別は法的にはなくなったが、差別意識を持っている白人はまだ存在し、ヘイトクライムが疑われる殺人も絶えない。黒人に対する差別感情を秘めている白人が、どれほどいるのかは定かではないが、それを公言することは現在の社会規範に反し、はばかられることだろうし、ましてや政治家など公職にある人が、私的な場であっても、差別を容認する発言をしたならばアウトだろう。

 誰にも「本音」と「建て前」があり、それらを場面によって使い分けて生きているのかもしれないが、公職にある人には、私的な場であっても、相応の責任が生じる。公職にあることの責任とは、その社会における価値観を尊重することだ。価値観を共有する人物であると認識されるからこそ、公職につくことが容認される。

 民主主義や自由など、社会の価値観を共有しない人が公職にあると、失言や問題発言を繰り返す。公職にあることの責任に対する自覚が不足している人は、失言や問題発言を批判されると、私的な場でつい本音が出たなどと甘えて言い訳したり、マスコミに嗅ぎつかれて批判のやり玉にあげられたなどと不平を言ったりし、公職にある者なのに「公」の意識が希薄であることを自ら暴露する。

  政治家の中には、ポロリと本音を言うことが主権者にウケるとし、本音を言うことが許されていると勘違いする人もいる。確かに、その人の人間性をさらけ出す笑える本音ならウケるだろうが、民主主義や自由などの価値観を否定したり、差別を容認するような「本音」は、その人が公職にあることの不適切さを示すだけだ。

  公職にある人は、私的な場であろうと、全ての発言に公的な責任を負う。そうした厳しさを担う覚悟がないまま公職につく人は、失言騒ぎを起こすとマスコミに責任転化する。マスコミは騒ぎを好むものだから、失言や問題発言は格好のネタだ。わざわざネタを提供して、マスコミに騒ぐなと要求しても無駄だ。

 公職にある人は何らかの権力に関わるから、厳しい自覚と覚悟が求められるのだ。だが、責任や覚悟が希薄なまま、何らかの権力に関わる人は、勘違いした特権意識を持つことがある。自分が特別な人間だから権力に関わると誤解する。公職にあるから権力に関わるだけであるのに、ポストではなく個人に権力が与えられたように勘違いする。

 何らかの権力に関わるから、公職にある人は批判される対象になる。公職につく覚悟とは、常に注目され、批判されることを受け入れる覚悟だ。公職にある人には批判される勇気が必要で、批判される勇気を持つならば、言論の自由を恐れることはなくなる。自分の意に染まない批判でも、見当違いの批判でも、間違った批判でも、聞く勇気を持つ。批判される勇気がないから、言論を封じようと発想するのだ。