望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

内なる植民地

 欧米に比べて日本は移民の受け入れ数が少なすぎるとの批判があるが、飲食店やコンビニなどで見かける外国人労働者は珍しくなく、多くの外国人技能実習生も存在するというから日本で働く外国人は増えているようだ。住む国を変えて働く人を移民とするなら、日本にも少なからぬ移民が既にいる。

 国際移民の法的定義はないそうだが国連は、定住国を変更した人々を国際移民とみなし、「3カ月〜12カ月間の移動を短期的または一時的移住、1年以上にわたる居住国の変更を長期的または恒久移住」と区別するのが一般的と解説しているから、外国人技能実習生は移民と見なされる。

 移民を受け入れることにより、開放された社会であることを誇示する欧州が、閉鎖的な日本を批判する一方で、中東やアフリカからの大量の移民殺到に耐えられなくなって、移民の制限(管理)を強化したり、政治問題化して国内対立が強まっているのを見ると、崇高な理念を掲げても現実に裏切られるのだなあと同情したくなる。

 移民を受け入れてきたと誇示する欧米だが、移民はもっぱら低賃金労働に従事する労働力となってきた。最近では、先進国の多くでは人口が減少するから、それを補う労働力として移民を受け入れるべきだとする主張が現れ、さらに、ハイテクなど高度な技術開発に関わる人材がもっと多く必要だから、高度な知識を備えた移民を呼び込めとの主張もある。

 移民をめぐる議論で抜け落ちているのは、移民は一人一人が意思を持った人間であるということだ。地球上のどこで暮らすかは個人が選択することであり、個人は国に縛られることなく、個人が国を選択するという意味も移民にはある。資本のグローバル化に個人が対抗する手段の一つが、個人も国境を越えて自由な移動を行うことだ。

 米国が移民受け入れに寛容なのは国の成り立ちからも理解できるが、欧州が移民受け入れに前向きなのは、かつての植民地経営で現地の人々を労働力としてのみ扱ってきた経験があるからかもしれない。不足する労働力を補うために、海を越えてアフリカなどから労働力(奴隷)を移動させたという歴史的な経験が英国などにはある。

 移民として自国内に労働力を迎え入れて低賃金労働を担わせるというのは、内なる植民地の形成とも見なすことができる。どんな美しく人道的な言葉で飾ろうとも、移民受け入れの実態が使い捨て労働力の受け入れだとすれば、収奪が目的だと見るしかない。現代の移民問題と過去の奴隷貿易を対比させるなら、移民問題の別な面が見えてくる。