望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

「無宿」という精神

 竹中労さんが羽仁五郎さんから頂いた色紙には、「少々読みにくい達筆で『学問無宿』、それを見るたびに私はニヤリとする。--羽仁五郎くみし易し、むろん学問の方ではなく、無宿の精神においてである」(『アジア燃ゆ』)。無宿を自認するのは、自由な精神の証でもあるだろう。

 無宿を地域にとらわれないことと見ると、学問と無宿の精神は実は相性がいい。学問は本来、普遍を目指すものであり、特殊(地域)にとらわれる必要がない。例えば、水がH2Oであることや、ニュートン力学の適用などは世界に共通することであり、地域によって異なるわけではない。日本でだけ通用する学問的な真理などというものはない。

 現実の世界では、政府などが拠出する研究費を得るためには、学問の方向性などに「縛り」が生じたりして地域性を帯びることもある。紙とペンだけがあればいい学問ならともかく、大きな実験装置などを要する学問では獲得した予算に「紐」がついていることもあり、無宿を気取ることは簡単ではなかろう。

 無宿とは、文字通り「宿無し=住む家がないことや、住む家がない人」のことだが、江戸時代には「人別帳から名前を除かれること。また、その人。貧農や下層町人から無宿となるものが多く、江戸中期以降、大都市およびその周辺で多数出現した」(大辞林)。人別帳とは「江戸時代の人別改のための帳簿」で、人別改とは「江戸時代の戸籍調査。初め夫役賦課のための労働力調査が主眼で、のちにキリスト教禁圧のために宗門人別改が広く行われた」(同)。

 無宿者とは体制の秩序からはみ出し、こぼれ落ちた者のことであり、身分制による管理が厳しい社会では日陰者扱いされただろう。しかし、体制からはみ出したなら自力で生きるしかなく、結果として、自発的に生きることを選んだ人たちでもあった。

 現代において無宿の精神とは、体制に与せず縛られず、自由に生きようとすることであり、特殊(地域)にとらわれずに普遍性を志向することである。グローバル化した世界において無宿とは国家に拘束されない、自由な人間であろう。そのように無宿を読み替えたところに、羽仁五郎氏の精神の自由が現れている。

 国家や社会に依拠せず、自由に生きることを目指すなら、無宿の精神が必要だろう。ただし、無宿には無宿の掟があったりし、また、国家は無宿に生きる人も管理しようとするから、無宿の精神で生きるには相応の覚悟を要しよう。無宿の精神を支えるものは個としての強さか。